2024年12月22日 クリスマス礼拝 イザヤ書 7章10~14節

10 主は更にアハズに向かって言われた。

11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

12 しかし、アハズは言った。「わたしは求めない。 主を試すようなことはしない。」

13 イザヤは言った。

 「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず

 わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。

14 それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。

 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。

目次

<説教>「主はわたしたちと共にいます」 

アドベント第4主日です。今年の25日は平日なので、22日の今日をクリスマスを記念する礼拝として行います。クリスマス、おめでとうございます!

24日の19時からはクリスマス・イヴ賛美礼拝を行います。こちらは賛美と朗読を中心に、主イエス・キリストの誕生をお祝いします。宜しければそちらもご参加ください。オンラインでの参加も出来ますので、ご自宅や施設などからもご参加いただけます。どうぞ宜しくお願いいたします。

さて、アドベントの4本目の蝋燭に火が灯りました。4本目の蝋燭の意味は「愛」です。そして5本目の白い蝋燭はイエス・キリストの到来を意味しています。神の愛を体現し、私たちに教えてくださった救い主イエス・キリストの誕生を、皆様とご一緒にお祝い出来ますことを心より感謝いたします。

今日の聖書箇所は、旧約聖書の中の預言書イザヤ書です。イエス・キリストはユダヤ人の王として、そして全世界の救い主とお生まれになりましたが、その誕生は古い約束の書である旧約聖書に示されていました。その根拠の一つとされているのが今日の箇所、インマヌエル預言と呼ばれるところです。

インマヌエルとは、「神は私たちと共に居る」という意味です。そして、イエス・キリストのイエスと言う名前は、「神は救い」であるという意味です。人間にとっての救いとは何か。それはこの世界を造り、命を与えてくださった、神が私たちと共に居てくださるということです。

旧約聖書によれば、人間は神に造られた存在なのに、自分も神のようになろうとして、神から離れてしまったのだといいます。善であり命である神から離れている状態、そのことをキリスト教では罪と言います。罪の先にある結果は滅びで、人間は誰でもいつか必ず死に滅びゆく存在になってしまった。しかし、この世界の造り主で、私たち人間にとっても親のような存在である神さまは、私たちが滅びることを望まず、御子イエス・キリストを救い主としてこの世に送ってくださった。

イエス・キリストは全ての人の救い主。では一体何から救ってくださるのか。それは私たちの罪から。愛である神さまから離れて、自分勝手に闇雲に生き、滅びていく生き方から、神さまと和解して神さまを中心とした愛の生き方へと導いてくださる。それがイエスさまです。

神さまはイエスさまの十字架を通して、すべての人の罪を赦してくださった。それは人間側の功績によるものではなく、一方的な神さまからの愛ゆえでした。何か善行の対価ではなく、一方的に与えられるものを恵みと呼びます。それは今日の資本主義社会に生き、自己責任論が大手を振っている社会に生きる私たちにとっては理解しにくいものです。イエスさまは神さまの恵みを太陽や雨にたとえて、どんな人にも与えられると教えておられます(マタイ5章45節)。

信じがたいほど素晴らしい神の恵み、アメージング・グレイス。神さまによって罪が赦された、神さまが救ってくださったとは、神さまはいつも私たちと一緒にいてくださるのだということです。

どこか遠くに探しに行かなくても、目には見えなくても、神さまは私たちといつも一緒にいてくださる。それがインマヌエルという名の意味であり、イエスという名の意味です。

私たちには恐れるものはない。この世界を造られた神さまが一緒にいてくださるのだから。そのようになると言われたのがインマヌエル預言です。

この預言の背景をもう少し見てみましょう。この預言は今から約2,700年ほど前に、南ユダ王国のアハズ王に向かってイザヤを通して語られた預言です。当時、今日のパレスチナには北のイスラエル王国と南のユダ王国という二つの国がありましたが、アッシリアという大国の脅威にさらされていました。北イスラエルは今日のシリアにあった都市国家群と連合してアッシリアに対抗しようとします。そして南ユダにもその連合に加わるようにと望みますが、アッシリアを恐れた南ユダは拒否します。すると、北イスラエルとシリアは南ユダに傀儡政権を建てようと攻撃してきました。そのような困難の中で、預言者イザヤは神さまを信頼し、しるしを求めるようにとアハズ王に告げました。しかし、アハズは「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」と断ります。

アハズの取った態度、これは一見すると正しいように思えます。聖書には「あなたたちの神、主を試してはならない」(申命記6章16節)とあり、イエス・キリストも悪魔から神さまを試すようにと誘惑されたときに断っています。しかし、この時ばかりは例外でした。神ご自身がしるしを求めるようにと言われたのです。しかし、アハズはイザヤを信じず、神さまも信じませんでした。

イスラエルとユダの王たちについての記述の中でアハズは、「彼は父祖ダビデと異なり、自分の神、主の目にかなう正しいことを行わなかった」と記されています(列下16章2節、歴下28章1節)。

彼はアッシリアに援軍を求めます。神さまではなく、人間の武力に頼ったのです。アッシリア軍によってシリアは滅び、北イスラエルも大幅に領土を減らしました(シリア・エフライム戦争)が、アハズはアッシリアに従属し、感謝を示すため、アッシリアの偶像を国内に建て、神さまの怒りを買うことになります。彼の態度はイスラエルの代々の王と同じでした。ダビデの家の者は神に逆らい、人にも神にももどかしい思いをさせてきたのです。

しかし、それでも神さまはダビデの家を、そしてイスラエルの人々を見捨てませんでした。

しるしを求めない彼に対して、神ご自身がしるしを見せると言うのです。そのしるしが、インマヌエルと呼ばれる子どもの誕生です。このインマヌエルとは誰か。イザヤ書が書かれた当時は、これはアハズの子であるヒゼキヤを指していたと考えられます。

ヒゼキヤはアハズの次に南ユダの王となりますが、彼は父アハズとは異なり、「父祖ダビデが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った」(歴下29章2節)、「彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった。彼は主を固く信頼し、主に背いて離れ去ることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った。主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した」(列下18章5~7節)と言われています。

「主は彼と共におられ」、すなわちインマヌエルです。ヒゼキヤ王は預言者イザヤを信頼し、神に従う公平な王となったようです。しかし、彼の後の王たちはまた神さまに背き、ついには南ユダ王国も滅び去りました。それでも、希望は残されます。

「その日が来ればエッサイの根はすべての民の旗印として立てられ国々はそれを求めて集う。

そのとどまるところは栄光に輝く」(イザヤ11章10節)

エッサイとはダビデ王の父のこと。ダビデに連なる方が、すべての民の旗印となり、すべての人がその方を求め、神の民となる。イザヤの預言は一人のユダヤの歴史的な王の枠に収まらない広がりを持ちました。おそらくはイザヤ自身も知らなないうちに、諸国民の王となる一人の方、イエス・キリストを指し示していたのです。そこに私たちは神のなさる業の不思議さを見ます。

その王イエス・キリストは、武力ではなく愛で世界を支配し、人に仕えられるのではなく、人に仕えることで、神の愛のしるしとなられました。

『「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である』(マタイ1章23節)

新約聖書の一番初めに置かれているマタイによる福音書の冒頭は、イエス・キリストの系図で始まっています。ともすれば眠くなり、聖書を始めて読もうとする人のつまずきになると言われるイエス・キリストの系図ですが、今回、イザヤ書を読む中で一つの気づきがありました。

その系図の中に、アハズの名前があるのです。この系図はイエスがダビデ家に連なるものとして描かれているのですから、当然と言えば当然かもしれませんが、しかし私はこの中にも慰めを見ます。

アハズをはじめ、神さまに背いた人も、イエス・キリストの系図の中にあるということは、神さまは愛によってその罪を覆ってくださるということを指していると思うのです。私たちもまた、人生の中で時に迷い、失敗し、間違うけれども、神さまはそのような私たちを愛し、見捨てない。

そしていつまでも、主はわたしたちと共にいてくださり、立ち直らせてくださる。

そのために、イエスさまは私たちのために生まれてくださいました。クリスマスおめでとう!

私たちの救いの御子の御降誕を喜びましょう。

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