13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。
14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」
15 しかし、イエスはお答えになった。
「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。
イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。
17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。
<説教> 「わたしの愛する子」
今日は神の子イエス・キリストが洗礼者ヨハネから、洗礼を受けられた記事です。
洗礼ヨハネはイエス・キリストの先駆者として、神から遣わされた預言者です。
当時、ユダヤの人々は旧約聖書に預言されている救い主の登場を待ち望んでいましたが、その救い主が来る前に、伝説的な預言者エリヤが再び登場すると信じられていました。
ヨハネはそのエリヤの役割を負い、イエスが来られる道を整えた人でした。
彼は、「悔い改めよ。神の国は近づいた」と人々に向かって呼びかけました。「神の国」、神が支配される世界が近づいた!とのメッセージを受けて、大勢の人がヨハネの元に集まってきました。彼はイエスラエルに流れるヨルダン川で、その人々に洗礼を授けます。
洗礼とは、水で身を洗う宗教的儀礼です。もともとユダヤ教にも水で身を清めるというミクヴェという行為がありました。それは、物理的な汚れを落とす入浴とは違い、目に見えない罪や穢れを洗い流すという思想です。外から帰ってきた時、食事の前、礼拝する前など、様々な場面で行われました。日本でも同じような目的で、水によって身を清めようとする「禊」や「沐浴」と呼ばれる行為がありますよね。有名なインドのガンジス川でも沐浴が行われており、世界中のあちこちで同じような行為が見られます。これらは日常の中で、繰り返して行われます。
しかし、ヨハネの洗礼はそれらと違い、人生にただ一度きりと言う特徴がありました。
そして、ただ習慣的な行為として行う、それをすれば終わりというのではなく、
洗礼を受ける前に「悔い改め」と「神さまに従う生き方」が求められました。
悔い改めとは自らの罪、神への背きを認め、反省して神に立ち帰ろうとすることです。
私たち人間はだれでも罪があると言います。罪とは、愛である神から離れて、自分勝手に生きてしまう生き方のことを指します。そのような生き方を反省し、神さまに従って生きようとすることを悔い改めと呼びます。では神さまに従う生き方とは、具体的にどんな生き方でしょうか?ルカによる福音書の同じ洗礼についての記事で詳しく説明されています。
『そこで群衆は、「では、わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
ヨハネは、「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。
食べ物を持っている者も同じようにせよ」と答えた。
徴税人も洗礼を受けるために来て、「先生、わたしたちはどうすればよいのですか」と言った。ヨハネは、「規定以上のものは取り立てるな」と言った。
兵士も、「このわたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねた。
ヨハネは、「だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ」と言った。』(ルカ3:10~14)
分け合うことや与えられているもので満足すること、搾取しないことが言われています。これは言い換えれば、倫理的に正しい生き方、誰もが正しいと思える普遍的な生き方と言えるでしょう。
なんだ、特別なことじゃなくて当たり前のことが言われているんだなと思われた方もいるかもしれません。そうです、神さまは十戒をはじめとして、ずっと人々に正しい生き方を示してこられました。それは要約すれば、お互いに愛し合う生き方、すべての人がお互いに大切にしあう生き方です。
それは神さまに造られた私たちが幸せに生きるためものです。
しかし残念ながら、そんな当たり前のことですら守られていないのが私たちの社会のようです。
2,000年前のユダヤの地だけでなく今日の世界でも、そして私たちが住む日本でも、不公正や不正義が横行しています。「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(マタイ24:12)、そのような社会になってきています。
いまこそ、洗礼者ヨハネやイエス・キリストの言葉に耳を傾け、悔い改めて倫理的に正しい生き方へと転換して行かなければならないのではないでしょうか。キリスト者の責任として、またこの国の主権者の一人として、政治に関心を持ち、社会的正義を求めて行かなければならないと痛感しています。私たち一人ひとりの倫理的に正しい生き方や公正・公平・寛容な社会の実現は、神さまが求めておられることです。神さまは私たちの造り主、私たちの親のようなお方であり、私たちがお互いに愛し合って、大切にし合って、皆が幸せに生きることを望んでおられるのです。
悔い改めとは、方向転換することです。今までの自分が間違っていたと認めて、愛である神さまに従って生きようとすることです。私たちは間違える生き物です。人間には誰でも罪があり、完全ではありえません。失敗や間違いは誰にでもあることです。私も傲慢になり、誰かを傷つけてしまったという経験があります。間違えたくない、失敗したくないと思うのだけれど、してしまう。そういうことは誰にでもあることでしょう。でも、間違っても、それを反省する経験を通して、人は成長していくのだろうとも思います。
とはいっても、間違いを認めるのは難しいというのもよく分かります。私も自分を振り返った時、自分の間違いを認めたり、反省することは下手だなと思います。なぜでしょうか。それはもしかしたら、赦してもらえないと思うからかもしれません。叱られたくない、罰を受けたくない、恥ずかしい思いをしたくない、他人に嫌われたくない。間違いを認めるのは怖い、だから自分を守ろうとしてしまう…。そんなとき、イエス・キリストのことを想い出してみてほしいのです。
イエス・キリストは私たちの身代わりとなり、十字架の上で死んでくださいました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ福音書23:34)と神さまに私たちを執り成し、私たちが受けるはずの罰を、代わりに引き受けてくださったのです。でもそれは悲しみでは終わりません。その死んだイエスさまを、神さまは復活させてくださいました。それは私たちを赦すという神さまからのメッセージです。「もう大丈夫。あなたは赦された、だから私について来なさい」、イエスさまはそう言ってくださるのです。
今日はイエス・キリストの洗礼の箇所です。
イエスは神の子であり、神と心を一つにしておられるので、イエスには罪はなく、悔い改めは必要ありません。それなのに洗礼を受けられた。それは私たちの仲間となって下さるためでした。わたしもあなたと同じ、あなたの苦しみを分かる、あなたの人生を一緒に背負う、そう言ってくださるのです。
洗礼は水で行います。水は死と、新たな命を象徴しています。イエス・キリストが十字架で死に、そして復活したように、私たちが洗礼を受けるとき、私たちもイエス・キリストの死と復活を共にするのです。
これは魔術的なことではありません。洗礼を受けてそれで終わりと言うわけではありません。
洗礼は新しい命、新しい生き方の始まりなのです。イエスさまの一番弟子、ペトロは言っています。
「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」
(Ⅰペトロ3:21)
私たちは間違ってしまう。でも、大丈夫。神さまは見捨てない。何度だって赦してくださる。
神さまの子イエスさまを身代わりにしてくださったほどに、あなたは大切だと言ってくださる。
だから、正しい心を神さまに願い求めて、間違っても間違って、その度に反省し、過ちを認め、
少しずつでも変わり、良い人間になりたいと思いながら、お互いに大切にしあいながら生きて行く。
それってとっても素敵なことだと思いませんか。
イエス・キリストが洗礼を受けられた時、天が開け神の霊、聖霊が下り、
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神さまから呼びかけられました。
この呼びかけは、私たちにも向けられています。
洗礼を受けた皆さん、思い出してください。あなたは洗礼を受けました。イエス・キリストが共におられます。あなたは神さまの愛する子、神さまの心に適う人です。間違ったとき、失敗したとき、思い出してください。必ず神さまは赦し続けてくださいます。だから、これからも、神さまに良い心を願い求めながら、歩みましょう。
洗礼を受けたいけれど、様々な事情から受けられない皆さん。大丈夫。神さまはすべてご存じです。
あなたも神さまに愛されています。あなたが今、ここにいるということ、それ自体が神さまの招きです。イエスが十字架につけられた時、イエスと一緒に十字架につけられた犯罪人の一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言うと、イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われました(ルカ福音書23:42~43)。この犯罪人はきっと洗礼を受けてはいなかったでしょう。それでも、イエスさまは彼を見捨てませんでした。だから同じように、あなたのことも見捨てません。
洗礼を受けようか迷っている皆さん、また考えていないという皆さん。あなたも神さまに愛されています。洗礼は「神に正しい良心を願い求めること」。正しい人、清い人だから受けるのではありません。正しく生きたいと思うから受けるのです。私たちは人生の中で悩みます。様々な悪の誘惑にも出遭います。そんな時、洗礼が私たちを引き留めてくれる、そんなこともあります。「みんながやってるから大丈夫」、そう囁かれるとき、「いや、自分はクリスチャンだから」と引き留めてくれる、そしてもし失敗しても、またやり直そうと思える、自分を神さまに繋ぎ止めてくれる船の錨のようなものなのです。もしイエスさまに心を惹かれているなら、イエスさまに従って生きてみたいと思うなら、洗礼を受けてみませんか。
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、そのような方が、皆さんと一緒に居られます。私たちもまた、神さまに愛されている神さまの子どもとして、今週も歩んでいきましょう。