18 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
19 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
20 二人はすぐに網を捨てて従った。
21 そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。
22 この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。
23 イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。
24 そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた。
25 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。
<説教> 「 わたしについて来なさい 」
先日は北海教区の年頭修養会が行われました。宿泊参加の方と日帰り参加の方を合わせて178名の参加がありました。主に日本国憲法24条から講演がなされ、個人の尊厳の大切さを改めて実感させられる良い機会でした。また、普段はなかなか顔を合わすことのない他教会の方々と交流でき良い時でした。次回の開催は未定ですが、機会がありましたらぜひご参加ください。
さて、イエス・キリストにはたくさんの弟子がいましたが、特にその中心となる12人の弟子たちがいたそうです。今日はその中の4人、シモン・ペトロとアンデレの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスの弟子となる物語です。
イエスさまは洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けた後、荒れ野で悪魔からの誘惑を退けます。そしてイスラエル北部、ガリラヤ湖畔にあるカファルナウムという町を中心に福音を開始されました。
ガリラヤ湖は南北に約21㎞、東西に約13㎞、周囲は約53㎞、面積約166K㎡で、琵琶湖の4分の1くらいの大きさだと言われます。北海道で一番大きなサロマ湖よりも少し大きいくらい。札幌の近くだと支笏湖と洞爺湖を足したよりもうちょっと大きいくらいと考えると身近に感じられるでしょうか。
イスラエル南部にある塩の湖、死海に次いで世界で二番目に海抜の低い湖で、東西を高地に挟まれ、時に突風が吹くそうです。楽器の琴に形が似ていることから、琴のヘブライ語に由来するキネレト湖とも呼ばれます。他にも当時の支配者、ローマ皇帝ティベリウスに由来してティベリアス湖とも呼ばれます。
そのガリラヤ湖があるガリラヤの地はイスラエル王国の支配下にありましたが、北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた後、様々な民族が移住させられ、文化や民族が交じり合い、他のユダヤ人たちからは「異邦人のガリラヤ」と蔑視されていたようです。そのように低く見られたところから、イエスさまの宣教が始まります。神さまの視点は小さくされたところにこそ注がれることを教えられます。そしてこのことは、旧約聖書にある預言の成就でもありました。イエスさまは旧約聖書に約束された救い主として、神さまの約束を実現するために活動されたのです。
さて、イエスさまがガリラヤ湖のほとりを歩いていると、シモンとアンデレという二人の兄弟が網を打っていました。彼らは投げ網で魚を取って生計を立てる漁師でした。
イエスさまが彼らに、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と呼びかけると、二人はすぐに網を捨てて従い、弟子となりました。 シモンは後にイエスさまからケファ(岩)というあだ名を貰い、そのギリシャ語であるペトロと呼ばれるようになります。
魚を獲る漁師に向かって、「人間をとる漁師にしよう」とはなかなか素敵な呼びかけだなぁと思います。これは実は、同じような表現が旧約聖書のエレミヤ書16章16節、アモス書4章2節に出てきます。そこでは、神さまの裁きの前から人間は逃れられないということの表現として使われていましたが、イエスさまは人間を裁くためではなく、救うために彼らを用いられます。
この呼びかけに感じるものがあったのでしょう。彼らは大事な商売道具である網をその場に捨てて、すぐにイエスさまに従いました。イエスさまの言葉には、人を変える力があるのです。
彼らがそこから進むと、ゼベダイという漁師が二人の息子、ヤコブとヨセフと共に舟の中で網の手入れをしています。そこでもイエスさまは同じ言葉をかけたのでしょうか。ヤコブとヨセフも、大事な舟と父親を置いてイエスさまに従いました。
この物語ではイエスさまに従う、イエスさまの弟子になる一つの模範が示されています。イエスさまが呼びかけ、弟子はその呼びかけに応えて従うのです。これはキリスト教信仰の一つの典型的な形です。「神の主権」という良い方がされますけれども、まず神さまの方から私たちに呼びかけがあり、私たち人間がその呼びかけに応答していく。主導権は自分を含めたこの世界の主である神さまにあるからです。
私たちも様々な理由やきっかけで教会に集まり、イエスさまの弟子となります。家の宗教がキリスト教だった、学校や園がキリスト教主義だった、友人・知人に誘われて、本や映画などから興味をもって、たまたま通りがかって、魂の救いを求めて…などなど。理由やきっかけは違うけれども、一つ同じ事がある。それは、みんな神さまに招かれたということ。自分で選んで教会に来たようでいて、実は神さまに導かれていたんだ、そのように考えるのです。
みんな神さまに招かれたのだから、そこに優劣はありません。何か他の人よりも立派だから、何か他の人よりも優れているから選ばれたのではありません。ただただ、神さまが私たちを愛しておられるから招かれたのです。それは私たちが誰も自分の功績を誇って他の人を見下すことがないためです。
今日の物語で招かれたのはガリラヤと言う田舎の漁師たちでした。当時の社会から見れば取るに足りない、ごくごく普通の、もしかしたら普通以下の人をイエスさまは選んで、真っ先にご自分の弟子たちとされたのです。
それは私たちに安心をくれます。「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われる通り、すべての人の上には唯一の神さまのみがおられるのです。神さまの前では人はみな罪人であり、同時に愛されている存在です。神さまの前では人間に優劣はありません。
私たち人間は神さまに造られた存在にすぎないのに、勝手に他者を順位付けしてしまいます。私たちもまた社会の中でそうした競争にさらされ疲弊します。分断が起こり、憎しみが起こります。しかし、この世界をお造りになった神さまはそのようにはこの世界を見られない。私たちは自分たちが社会から当たり前と思いこまされている価値観とは違う、一人ひとりが大切にされる、もっと良い価値観があることをイエスさまは教えてくれます。
さて、この4人の弟子たちは生活の糧を得るための仕事や家族すらも置いてイエス・キリストに従いました。このことから、時に日常や家族よりも宣教を大切にするべきだとの考えられることがあります。確かに、イエスさまも「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(ルカ福音書9:62)と言っておられますし、この世のものは一時のことで、やがては過ぎ去ります。最も価値あるものは天の国であるということは間違いないでしょう。しかし、それはこの世の日常や家族を疎かにしていいということではありません。
キリスト教系のカルトは世の終わりを強調し、宣教の方をこの世の生活や人間関係よりも重視する傾向にあります。最後の日の裁きを強調し、恐怖によって人を支配するのです。そして、財産を奪い、人間関係を破壊してしまいます。
しかし、それはイエス・キリストが言っておられることとは全く違います。そもそもなぜ私たちは宣教するのでしょう。いったい何を宣教するのでしょう。それは神の国の福音です。福音とは良い知らせのことであり、神の子イエス・キリストが十字架によって私たちの罪の身代わりになって下さり、私たちの罪を赦してくださった喜びのことです。そしてイエスさまが復活したように、神さまを信じイエスさまに従う私たちには復活が約束されている。死は終わりではないという希望です。だから恐れなくても良い。安心して、イエスさまに従い、互いに愛し合うように努めようという教えです。それは「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ29:11)と神ご自身が言っておられます。
イエスさまは神さまを「アッバ」と幼い子どもが呼ぶように呼びました。これは訳せば「お父ちゃん!」「パパ!」というような呼びかけです。そして、私たちにも神さまのことを「お父さん」と呼ぶように教えました。神さまは私たちの親のような存在であり、私たちを愛している。聖書には確かに「裁き」について語られているけれども、それは私たちを裁き、罰することが目的ではなく、私たちが神さまに立ち返るためです。「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」(エゼキエル18:23)と言われている通りです。旧約聖書において、神さまは預言者たちを通して何度もイスラエルにその罪を警告し、罰を下し、癒し、善である神さまに立ち返るようにと働きかけをなさいました。しかしついに、イスラエルは立ち帰りませんでした。罰の強調だけでは人は罪から逃れられないのだと思います。人は自分で自分を救うことは出来ない。だからこそ、イエス・キリストは十字架についてくださった。それは私たちが罰を恐れて、恐怖から神さまに従うのではなく、赦された喜びからイエスさまに従うようになるためでした。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネ3:16~17)と言われてます。神さまはご自分がお造りになったこの世を愛しておられるのです。
私たちの模範となるイエスさまの最初の弟子たちは仕事と家族を置いて従いました。それは私たちがこの世において優先すべきものは神さまであることを示していますが、仕事も家族も軽んじていいわけではありません。
今日の箇所で出てきたシモン・ペトロは結婚しており、イエスの弟子となった後もその関係は続いていましたし、彼が宣教者となった後は一緒に行動していたようです(Ⅰコリント9:5)。
イエスさまの家族も、弟子たちの家族も、はじめはその活動に理解がありませんでしたが、後には宣教に従事したり、弟子たちの働きを助けたりしています。なにより神さまは十戒で「父母を敬え」と言っておられます。私たちの人間関係も、神さまが与えてくださったものです。
では、イエス・キリストに従うとはどういうことでしょうか。それはきっと、イエス・キリストを通して神さまが示してくださった愛を中心にしてこの世界を見、その愛を中心に物事を判断しながら生きて行くということだと思います。他のどんな価値観でもなく、愛という価値観で、どんな人をも神さまが愛しておられるという目でこの世界を見、世界に関わり、この日常の中で生きて行くのです。
イエスさまは十字架にかけられる前、弟子たちに「互いに愛し合いなさい」と教えられました。
だから、これこそが最も大切なメッセージだと、私は信じています。
「わたしについて来なさい」と呼びかけてくださるイエスさまに、喜びながらついていくことができますように。