12 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、
両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。
13 そして言われた。「こう書いてある。
『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」
14 境内では目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄って来たので、
イエスはこれらの人々をいやされた。
15 他方、祭司長たちや、律法学者たちは、イエスがなさった不思議な業を見、
境内で子供たちまで叫んで、「ダビデの子にホサナ」と言うのを聞いて腹を立て、
16 イエスに言った。「子供たちが何と言っているか、聞こえるか。」イエスは言われた。
「聞こえる。あなたたちこそ、『幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた』
という言葉をまだ読んだことがないのか。」
<説教> 「神の家」
先日は出張とお休みを頂きましてありがとうございました。
年に一度の「外キ協」の全国集会が開かれ、北海道外キ連から代表の一人として派遣されました。
今年の会場は大阪生野区にあります在日韓国基督教会館で、在留外国人の多い生野区での多文化共生の取り組みや、京都宇治市にあるウトロ平和祈念館の取り組みから学びをいただきました。
今日、日本には様々なルーツを持つ方が約360万人住んでいるそうです。日本の人口から考えると、だいたい34人に1人くらいは外国にルーツを持つ方がいる計算です。今日、日本は少子高齢化が進んでおり、海外にルーツのある方々は、なくてはならない日本社会の一員となっています。
しかし残念ながら、歴史的・構造的な差別があり、日本では外国にルーツがある人々の人権が守られていない現状があります。同じ神さまに造られた人間なのに、人権が守られず、人としての自由や尊厳が守られていない。そのことに心を痛め、また日本人として恥を覚える人々が、またキリスト者としての責任を感じる人々が、虐げられる人々と連帯して外国人住民の人権を守る法律の制定を社会に訴えていくために日本各地に外キ連という集まりが出来、活動しています。この月寒教会でも毎年、署名活動などで皆様に協力していただいています。皆様のご協力に感謝いたします。
こうした社会活動に教会が参加することに疑問を感じる人もおられるかもしれません。
しかし、聖書ではいろいろな箇所で寄留の外国人を守るようにと言われています。
「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトの国で寄留者であった。」(申命記10:19)
そもそも聖書の民であるヘブライ人は「川向うから来た人」という言葉が由来であり、移民でした。
エジプトで奴隷とされましたが、神さまに導かれ、難民としてカナンの地に移り住みました。
その後、神さまに従わず、国が滅び、離散して世界各地に住むようになりました。
イエス・キリストも生まれてすぐにヘロデ王から命を狙われ、難民としてエジプトに逃れました。
また、私たちキリスト者はこの世にあって寄留者だと言われます(Ⅰペトロ2:11)。
私たちは神さまによって命を与えられました。私たちは一時、神さまから貸し与えられている命をこの地上にあって生き、やがてはその生を全うして、神さまの元へ帰っていく、旅人のような者。いわば寄留者です。この地上はすべて神さまのもの。その意味で、私たちも在留外国人のような存在なのです。だから、お互いに大切にしあい、どんな人も差別されず、神さまに造られた一人の人としての尊厳が守られ、安心して暮らせる社会になってほしいと思います。そのためにも、これからも皆様のお祈りとお力添えをいただけましたら幸いです。
さて、今日の聖書箇所は「宮清め」と呼ばれる出来事です。イエス・キリストがエルサレムにあった神殿の境内で、大暴れ。柔和で謙遜な方、暴力に訴えないはずのイエスさまがなぜでしょう?
今から約2,000年前、イエスさまが活躍された当時、エルサレム神殿の境内には「異邦人の庭」と呼ばれる場所がありました。私たちが信じるキリスト教は国籍や民族を越えた世界宗教ですが、そのルーツである古代ユダヤ教は、ユダヤ人の祖であるヘブライ人の為の宗教でした。
ユダヤ人ではない人たちは異邦人と呼ばれ、神殿の中に入ることは禁じられていましたが、境内の「異邦人の庭」と呼ばれる場所までは入ることができ、そこで神さまに祈ることが許されていたようです。
この「異邦人の庭」には、神殿で神さまに献げるいけにえを売る市場がありました。今日の礼拝ではいけにえの代わりに献金をしますが、昔は羊や山羊、鳩などのいけにえを献げていました。神さまに献げるいけにえは、傷がない最上のものでなければなりません。けれども、遠くから礼拝に来て、その途中で連れてきた動物が傷ついてしまうかもしれない。だから、神殿で傷のない動物が売っていれば、便利です。そうした必要から市場が開かれるようになったようです。
また、神殿は今日の役所のような機能があり、ユダヤ人の成人男性は毎年神殿税を納める必要がありました。そのために使われる硬貨は銀の含有量が高いフェニキアのツロの硬貨のみで、ギリシャやローマなど他の地域の硬貨は使えません。だから神殿の境内で両替する必要がありますが、エルサレム神殿ではその両替の際に手数料を取って儲けていたようです。
それだけでなく、当時の神殿は銀行のような役割も果たしていたようです。イエスさまが十字架にかけられてから約30年後、ユダヤ人たちはローマ帝国に対して反乱を起こします(ユダヤ戦争)が、その際に人々はエルサレム神殿に保管されていた借金の証文を焼き捨てたそうです。このことから、当時の人々が重税や負債に苦しんでいたことが分かります。経済的な不平等や搾取に、当時の神殿も加担していたのかもしれません。そうした神さまにではなく、富に仕えているような姿勢、偶像崇拝をイエスさまは批判したのでしょう(マタイ6:24、ルカ16:13)。
もともとは良い動機で始められたものが、だんだん形骸化していくことはどんな組織でも起こります。聖書に書かれている警告は、自分たちにも向けられていると考えて省みたいものです。
昔は宗教と政治が密接に結びつくのが当たり前でした。キリスト教もそうですし、日本でも80年くらい前までは国家神道のように宗教が政治支配のための道具となっていましたが、それは古代のユダヤでも同じでした。善政が行われている内はいいでしょうが、どんなものも時とともに腐敗するのが私たち人間の社会のようです。その度に神さまは預言者を通して警告を与えてくださいます。神殿や政治への批判は、イエスさまの前に活躍した預言者たちによっても度々なされました。
預言者たちは時に象徴的行為、パフォーマンスを通して問題提起を行いました(エレミヤ27:2等)。
イエスさまがなさった「宮清め」、「そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された」という行為も、以前の預言者たちに連なる行動だと言えるでしょう。
ではイエスさまはそれを通して何を教えたかったのでしょうか。それは形だけのいけにえ、形だけの礼拝への批判であり、また異邦人を排除するあり方についてだったのだと思います。そして、それだけでなく、イエスさまの神殿での行いは、旧約聖書の預言の成就でもありました。
「あなたたちが待望している主は突如、その聖所に来られる。」(マラキ3:1~5)、
「その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。」(ゼカリヤ14:21)と言われています。
ここで、「宮清め」という言葉に注目します。私たちが使っている新共同訳では「神殿奉献記念祭」(ヨハネ10:22)と呼ばれるユダヤ教の祭りがあります。これは新改訳と呼ばれる聖書では「宮清めの祭り」と訳されています。この祭りは、今日でもクリスマスの時期に行われている「ハヌカ(奉献・光の祭り)」というユダヤ教の祭りで、紀元前2世紀のユダヤ人による独立戦争、マカバイ戦争でセレウコス朝・シリアから神殿を奪還したことを祝う祭りです。あるべき姿に戻すことを祝ったと言えるでしょう。そのことから考えるに、イエスさまの「宮清め」も、神の家である神殿を、あるべき姿に戻すということを意味していると考えられます。
では、その「神の家」のあるべき姿とはどんなものなのでしょう。
イエスさまは「祈りの家」だと言っておられます。この言葉は、イザヤ書からの引用で、もとの文では「すべての民の祈りの家」(イザヤ56:7)。異邦人の救いについて語られている箇所です。
先に見たように、異邦人は「異邦人の庭」までしか入れませんでした。また、「目や足の不自由な者は神殿に入ってはならない」(サムエル下5:8)と言われており、異邦人だけでなく、障がいのある人も神殿の中には入れなかったようです。イエスさまは神殿の境内で彼らを癒しました。彼らを神の民へと回復してくださったのです。本来、神さまは全ての人を愛し、憐み、恵むお方です。神さまはこの世界の造り主であり、すべての人の親のようなお方です。
イエスさまは、「強盗の巣」とエルサレム神殿を批判しました。強盗は人のものを力ずくで奪います。本来は全ての人に与えられている神さまの恵みを、富や民族や障がいの有無などによって理由をつけ、分断し、独占していたのです。また、「強盗の巣」と言う言葉は、これはエレミヤ書7章11節からの引用です。この少し前でのところではこう言われています。
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。
そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。
主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。
この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、
寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、
自ら災いを招いてはならない。」(エレミヤ7:3~6)
イエスさまはイエスラエル神殿での礼拝の形骸化と社会的不正義を告発し、神に従い、行いを正すようにと警告したのです。聖書は言っています。
「神に従い正義を行うことは いけにえをささげるよりも主に喜ばれる。」(箴言21:3)
イエスさまがなさったことを見た人々は、彼こそが約束された救い主だと思い、子どもたちまで「ダビデの子にホサナ」と叫びました。「幼子や乳飲み子の口に、あなたは賛美を歌わせた」という詩編8:2~3の言葉の成就です。約束された救い主が来られた、新しい世界が始まった。
全ての隔ての壁が打ち壊され、すべての人がお互いに大切にしあう世界。暴力ではなく神の愛が支配する世界。その実現を信じ、主イエス・キリストに従って生きることがキリスト教を信じるということです。
確かに、現実はいまだそうはなっていない。でも、大丈夫。必ず最後にはイエス・キリストが帰って来て完成させてくださる。歴史の中では揺り戻しがあります。良い時も、悪い時もあります。振り子のように、行ったり来たり。でも、それでも、少しずつでも必ず良い方へと向かう。愛である神さまがそのように望んでくださっているから。そう信じて、どんな時も諦めずに生きましょう。
神の家とは神がおられるところ。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)とイエスさまは言っておられます。神の子イエス・キリストがいつも私たちと一緒にいてくださるということは、私たち自身も、それ以外の人も、どんな人も神さまの家だと言えるでしょう。そのことを忘れず、お互いに敬意を持ち、お互いに大切にしあいながら、今週も愛の主に従って歩みましょう。