2025年2月9日 降誕節第7主日・公現後第5主日マタイ福音書13章10~節

弟子たちはイエスに近寄って、

「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。 

イエスはお答えになった。

「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。 持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。 だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。 イザヤの預言は、彼らによって実現した。

『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。

この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。

こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。

わたしは彼らをいやさない。』

しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。

はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

目次

<説教>「私たちの幸い」

イエス・キリストはイスラエルの北部、ガリラヤを中心に神の国について教えておられました。

今日の聖書箇所は、イエスさまがガリラヤ湖のほとりで人々に「種を蒔く人のたとえ」を語った後、弟子たちからなぜたとえで話すのかと聞かれれたときの答えです。

「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、

あの人たちには許されていないからである。

持っている人は更に与えられて豊かになるが、

持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。

だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。

見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。

イザヤの預言は、彼らによって実現した。

『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。

この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。

こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。

わたしは彼らをいやさない。』

なんだか分かりにくい気がしますね。イエスさまは人々に教えるときにはたとえでお教えになりました。「たとえ」と言う言葉、新約聖書の書かれた言葉、ギリシャ語ではパラボレーですが、この言葉は旧約聖書の言葉ヘブライ語ではマーシャールです。たとえ話、比喩、倫理的格言、諺、寓喩、謎かけ、歌など広い意味を持つ言葉なのだそうです。

「人の子よ、イスラエルの家に向かって謎をかけ、たとえを語りなさい。」(エゼキエル17章2節)

エゼキエル書では神さまから預言者に、人々に謎をかけるようにと言われています。

たとえには違う物事を並べて分かりやすくする効果があるはずなのに、一方で物事を隠して分かりにくくする効果もあると習いました。一見違うもののように思いますが、実はたとえと謎かけには通じるところもあるようです。

では、なぜ神さまは謎をかけ、たとえで語るようにと言われたのでしょうか。それはきっと、あえて分かりにくくすることで、私たちの気を引き、私たちによく考えさせるためではないでしょうか。分かりにくいからこそ、悩み考える。すぐに分かったと思ってしまうと、もうそれ以上に考えることはしなくなってしまう。分かりにくいからこそ、一体神さまは私たちに何を語ろうとされているのかと考えるのです。

イエスさまはよく「耳のある者は聞きなさい」と言っておられます。聞く気のある者は聞きなさい、注意深くよく聞きなさい、と言われているのです。神さまの恵みは全ての人に向けられ、注がれているけれども、それを受取ろうとする私たちの態度が必要なのだと思わされます。

『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』

これは旧約聖書、イザヤ書6章10節からの引用ですが、細かい文言が変えられています。元の方では神さまに御計画があって、神さまが人々の心をかたくなにしたようにも取れるのですが、イエスさまの言葉の方ではむしろ聞き手の態度の方が問題とされています。

聞いても理解せず、見ても認めない態度。これは、イエスさまが故郷で教えておられたとき、大工の息子のくせにと受け入れられなかった出来事や、イエスさまの力ある言葉や癒しの奇跡を見ても救い主だと認めなかったファリサイ派や律法学者たちの様子が思い浮かびます。

旧約聖書で預言されていた通り、いま確かに神の子が人となって救い主として世に来られた。神さまの救いはイエス・キリストによって始まった。それなのに、人々は救い主を認めず、ついにはイエスさまを十字架につけて殺してしまった。神さまから救いの御手が差し出されているのに、それを認めない。そのような人間側の態度によって、イザヤ書の預言は実現してしまったのです。

「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。

はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

しかし、弟子たちはイエスさまを神の子、救い主と信じて従いました。弟子たちはいま、約束された救い主をその目で見、その教えを直接聞いている。歴代の神を信じる正しい人や、多くの預言者たちが待ち焦がれた方と、直接にお会いしている。こんな幸いは他にありません。

いいなぁとついつい羨んでしまいます。信仰の道に入ったけれど、疑い、迷うことは誰にでもあることだと思います。実際に目に見えれば、聞こえれば、もっと信じるのは楽だったろうに…。

でもこうも思うのです。もし、イエスさまと同じ時代を自分が生きていたとして、私は本当にイエスさまを受け入れて、イエスさまの弟子になることが出来ていただろうか。おそらくはそうではなかった。私も、イエスさまを受け入れなかった一人であり、イエスさまを十字架にかけた一人だったと思います(マタイ福音書23章30節)。

それにもし、直接お会いして弟子になれていたとしても、イエスさまが十字架につけられたるときには、他の弟子たちと同じように、怖くなって逃げていたでしょう。

イエスさまを直接見、直接教えを受け、「幸いだ」と言われた弟子たちも、最期の時にはイエスさまを裏切りました。でもきっと、イエスさまはそのことも分かっておられたのではないかな、とも思います。それでも、イエスさまはその弟子たちを愛してくださいました。そして、自分を受け入れず、十字架にかけた私たち、世界のすべての人を愛してくださいました。

私たちには想像もつかないことですが、イエスさまが十字架によって死ぬことは神の御計画であり、必要なことだったのだと聖書は言います。なぜそんなことを?それは私たちが自分で自分を

誇ることがないためです。どんな人も神さまの前では罪人であり、そして同時に愛されている神さまの子ども。それは私たちに安心を与えてくれます。

確かに神さまは、イエスさまは目に見えない。声も聞こえないし、手で触れることも出来ない。でも、私たちは知っています。

目に見えるもの、聞こえるもの、手に触れられるもの、それだけが確かなものじゃない。目に見えなくても、耳に聞こえなくても、触れることができなくても、確かに私たちを慰め、励まし、力づけてくださる方が居られるのだ、そう信じられることが私たちの幸いなのではないでしょうか。

私たちと新約聖書の書かれた時代とは約2000年の隔たりがあります。今を生きる私たちには、イエスさまの声を直接聞くことは出来ないし、そのお姿を直接見ることは出来ません。しかし、それでも、私たちはイエスさまが私たちの救い主であること信じるようになったり、まだ信じていない方も、知ってみたいな、信じてみたいなと思って教会に集まっています。このことは神さまがしてくださった一つの奇跡だと思います。だからこそ、イエスさまは言われます。「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ福音書20章29節)

この地上にあるもので、永遠に続くものはありません。形あるものはいつかは消えてなくなります。でも、神さまは、イエスさまはなくならない。神さまがイエスさまを通して示してくださった、私たへの愛は永遠です。だからこそ、パウロは最も偉大なものは愛だと言うのです。目に見えなくても、声は聞こえなくても、手で触れられなくても、神の子イエスさまは、いつも私たちと一緒にいてくださいます。その幸いを受け止めて、今週も歩んでいきましょう。

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