2024年2月16日 降誕節第8主日・公現後第6主日 マタイ福音書5章13~20節

13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。

14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。

15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。

16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。

18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。

19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。

20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」

目次

<説教>「 地の塩、世の光 」 

「あなたがたは地の塩である、世の光である」。マタイ福音書の山上の説教の中に出てくる、主イエス・キリストのみ言葉です。とても有名な言葉で、キリスト教主義学校では特に好んで使われているのではないでしょうか(青山学院、札幌光星学園など)。皆さんの中にも、聖書の中でも特に好きな箇所だと言う方もおられると思います。

私もとてもいい言葉だなぁと思います。ここでイエスさまは「地の塩、世の光」に成りなさいとは言われれていません。「あなたがたは地の塩である」、「あなたがたは世の光である」と宣言しておられます。私たちは、地の塩、世の光。そのように神さまに造られているんだというのです。

「地の塩」と言う言葉。私たちの住む日本では塩は海水から作ることが一般的だと思いますが、イエス・キリストが活躍されたイスラエルには死海という塩の湖があり、岩塩が取れるそうです。海から採れる塩に比べ、にがり成分が多く、苦いのだそうですが、もしかしたらそうした地面から採れる塩が身近にあったのかもしれませんね。

「塩は良いものだ」(ルカ14:34)とイエスさまは言っておられます。料理に味をつけるため(ヨブ記6:6)、食べ物を腐らせないため、また清めるために用いられました(列王記2:21)。

旧約聖書では、神さまへの献げ物には塩をかけろと言われています(レビ2:13)。

すべての生き物には塩が必要なのだそうです。像などの動物も地面の塩分をなめることが知られています。取り過ぎはいけませんが、私たち人間も塩がなくては生きていけません。

今日、塩は手軽に手に入りますが、昔はそうではなく、場所によってはとても高価な貴重品でした。

11世紀のガーナ王国では金と塩が同じ重さで取引されていたそうです。

そんな塩のように貴重な、大切な存在として神さまに造られた私たち。しかし、塩に塩気がなくなれば何の意味もありません。塩味を失った塩は砂のようなものですが、畑の肥料にもならず外に捨てられ、人々に見向きもされず、踏みつけられるだけだと言われます(ルカ14:34)。だから「自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」(マルコ9:50)と言われています。私たちが塩であるのは、互いに平和に過ごすためだと言えるでしょう。

またイエスさまは私たちを「世の光」にたとえて語ります。「世の光」というと、ヨハネ福音書ではイエスさまご自身のことを指していますよね(ヨハネ福音書8:12、讃美歌21-79番「みまえにわれらつどい」)。でもイエスさまは、私たちも「世の光」なのだと言われます。世の光である主イエス・キリストは、その弟子たちである私たちをも世を照らす光として用いてくださるのです(使徒13:46、イザヤ49:6)。

私たちが家の中で光が欲しい時、電気をつけますが、昔はともし火をともしました。お皿やランプに油を入れて、芯を浸して、火をつけるのです。そして高いところにある燭台に置きます。

けれどもそれを、穀物を計る升の下においたらどうでしょう。火は消えてしまいます。

イエスさまは地の塩、世の光、そして山の上の町のたとえを通して、私たちが神さまから与えられている光を隠さず、輝かしなさいと言われます。それは私たちの立派な行いを見て、他の人々が私たちの神さまをあがめるようになるためです。

マタイ福音書は特に私たちに立派な行いや態度を求めています。それは私たちが立派だと言われるためではなく、私たちが信じる神さまが素晴らしい方だということを証しするためです。この世界を造り、すべての人を愛し、私たちに立派な行いをするようにと促してくださる神さまを、他の人たちも知り受け入れることで、私たちは互いに平和に暮らすことができるのです。

皆さんは自分のことが好きですか。自分のことが好き、というのは素晴らしいことだと思います。

イエスさまは「隣人を自分のように愛しなさい」と言われましたが、自分ことが愛せない人は他の人のことも上手く愛せないと言う言葉を聞いたことがあります。確かに傲慢になるのは良くないですが、しかし自分を好きであるということは生きていく上でとても大事なことなのだと思います。けれども、なかなか自分のことが好きになれないというのはよくあることなのではないでじょうか。特に私たちが住む日本では自己肯定感が他の国に比べて低いと言われます。絶えず誰かと比べられ、なかなか褒められることもなく、何かが足りないといつも思いこまされている。そのような社会に住んでいるなぁと思います。自分のことを振り返ってみると、私も自分のことが嫌いでした。私は役者をしていましたが、そのきっかけも「ここではないどこかで、私ではない誰かになりたい」という願いがあったのだと思います。

しかし、神さまはそのような私のことも愛してくださっているんだなと思えるようになってきました。たとえ自分で自分のことが好きになれなくても、神さまは私たちを愛しておられる。神の子であるイエスさまは、神さまのことを「あなたたちの天の父」と言われました。この世界をお造りになった、そのような凄い方が私たちの親なのです。そして「あなたたちの光を人々の前に輝かしなさい」と言われます。自分では自分のことを大したことがない、良いところがないと思っていても、神さんはそのようには見られません。あなたは光なんだ、そのように私が造ったのだ、と言ってくださるのです。

旧約聖書では人間は神さまの似姿として造られたと言われています。

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」

(創世記1:27)と言われています。

そして、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)と言われます。

確かに私たち人間は皆、罪があり、自己中心的です。自分勝手に物事を判断し、他者を裁いてしまいます。しかし本来は、「極めて良かった」と言われる存在です。そのように神さまが造ってくださったのです。そして神さまはイエス・キリストの十字架を通して私たちの罪を赦し、再び神さまの子どもとして生きるように招いてくださっているのです。

大丈夫。たとえ自分で自分のことを好きになれなくっても、神さまは私たちのことを愛してくださっている。たとえ他の人から大事にされなくても、私たち一人ひとりは、神さまからは大切に思われている。私たちはそのような存在なのだと聖書は教えてくれています。

そして、それだけでなく、私たちにはそれぞれ何か役割が与えられていると言います。

塩のように、光のように、他者の役にたつ、そのような力が与えられている。そのような存在として造られている。それを活かしなさいとイエスさまは言われるのです。そしてそれは、ひいては神さまの栄光をあらわすことになるのだというのです。私たちも神さまのお役に立つことができる、そのようの存在なのだとイエスさまは言ってくださるのです。

さて、今日の聖書箇所の後半のところで、イエスさまは律法や預言者を廃止するためではなく完成するために来たと言われています。「律法や預言者」とは旧約聖書のことを指しています。

新約聖書は紀元50年~100年頃の間に書かれたと考えられています。イエスさまが十字架にかけられたのが紀元30年頃ですから、イエスの弟子たちの第二、第三世代くらい後の時代でしょうか。

もともとはユダヤ人の中から始まったキリスト教は、その頃になるとユダヤ人以外のキリスト者も増えてきました。そんな中で、旧約聖書を軽んじる人々も出てきたようです。

しかし、旧約聖書は救い主、神の子イエス・キリストを指し示すためのものです。イエスさまは旧約聖書の救いの約束が成就するためにこの世に来られたのです。イエスさまの教えは、旧約聖書の中で言われていることと通じています。

確かに、今日、私たちは旧約聖書の掟を逐一守ってはいません。例えば豚肉だって食べています。

それでは、私たちはイエスさまの教えに反しているのでしょうか。そうではありません。新約聖書は律法についてこのように教えています。

「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実」(マタイ23:23)

「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」(ローマ13:10)

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。(マタイ22:37~40)

「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(マタイ福音書7:12)

律法を守るとは、字づら通り、ただ書かれたことを守ればいいというのではないのです。それでは、イエスさまに批判されたファリサイ派や律法学者と変わらないでしょう。そうではなく、神を愛し、隣人を愛し、そのために自分が何をするのか、自分の頭で考えなさいというのが、イエスのおっしゃりたいことなのだと思います。

これはなかなか難しいことだなと思います。言われたことをただする方がよほど簡単でしょう。

でも、イエスさまは私たちには出来るはずだと言ってくださるのです。私たちは地の塩、世の光。

そのことを覚えて、今週も一緒に歩んでいきましょう。

目次