2025年2月23日 降誕節第9主日・公現後第7主日 マタイ福音書15章21~28節

イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。

すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、

「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」

と叫んだ。

しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。

「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」

イエスは、

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。

しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。

イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

そこで、イエスはお答えになった。

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」

そのとき、娘の病気はいやされた。

目次

<説教> 「食卓の下の子犬」

今日の物語の舞台はティルスとシドンの地方です。

ティルス(現スール)とシドン(現サイダ―)は今日のイエスラエルの北、レバノンにあります。

ここはフェニキア人の住んでいたところです。フェニキア人は今日のパレスチナ、カナンの先住民の一つで、多神教。海上貿易に優れ、地中海各地に植民都市を築きました。特産は高級染料の紫貝やレバノン杉など。ローマ帝国の前身、共和制ローマのライバル、カルタゴ(名将ハンニバル・バルカで有名)もフェニキア人が建てた国でした。

ユダヤ人ではない人たち、異邦人の住むティルスとシドンの地方。イエス・キリストはそこへ何をしに行かれたのでしょうか。新約聖書の書かれた言語、ギリシャ語を見ると「退かれた」となっています。また、同じ内容の記事が載っているマルコ福音書7章24節を見ると「だれにも知られたくないと思っておられた」と書かれています。

イエスさまはイスラエルの北部にあるガリラヤ地方を中心に、主にユダヤ人に向かって宣教されていましたが、今日の箇所ではユダヤ人の少ない地方へ行き、少し休もうとなさったようです。イエスさまは宣教の合間にしばしば人里離れたところに退いて祈っておられました(ルカ5:16)。私たちにも、休むことや、心を落ち着けて祈ることも大切なことだと思わされます。

ユダヤ人の少ないティルスとシドンの地方。しかし、そこでもイエスさまの評判は知れ渡っていたようです。イエスさまが来られたことを知って、一人の女性がイエスさまのもとにやってきます。

彼女はフェニキア生まれのフェニキア人、カナン人。ユダヤ人ではありません。

その人は、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫びました。この「叫んだ」と訳されている言葉は、ギリシャ語の原文では未完了形なので、「繰り返し叫び続けた」と訳せそうです。

「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」というイエスさまへの呼びかけ。

「ダビデの子」とはメシア・救い主のことを指しますから、この人はユダヤ人ではないけれど、

ユダヤ教の教えを知っていて、望みをかけていたことが伺えます。

「娘が悪霊にひどく苦しめられている」。もうどうしようもないのです、他に打つ手はないのです。お願いですから助けてください!何度も何度も叫びたくなるのも無理はありません。

しかし、一体どうしたことでしょう。イエスさまは何もお応えになりませんでした。

女性はなおも必死で叫び続けながらついて来ます。

たまりかねた弟子たちがイエスさまに近寄って頼みます。

「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」

この「追い払って」と訳されている語は、解散とか解放とも訳される言葉です。

静かに休もうとして、ユダヤ人の少ない地方へ来たのに、近くで叫ばれ続けたら休むどころではありません。「先生、早くこの人の望みを叶えて帰してください。あなただったら簡単でしょう」と、

そう願ったのかもしれません。

それに対してイエスさまは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになりました。

えーっ!?イエスさまはすべての人の救い主じゃなかったの?と不思議になりますよね。

イエスさまがイスラエルの人々のところにしか使わされていないなら、ユダヤ人ではない私たちは一体どうなってしまうのか。ユダヤ人じゃないと救われないのでしょうか?

いえいえ、大丈夫。神さまの救いの御計画には順序があったのです。イエスさまは神さまが旧約聖書を通して語られた救いの約束通り、まずユダヤ人たちのもとにやって来られました。

マタイ福音書において、イエスさまは弟子たちにもこのように言っておられます。

「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。」(マタイ10:5~6)

しかし、十字架で死に、復活して弟子たちの前に現れ、天に帰られる時にはこう言われました。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

(マタイ28:18~20)

復活したイエスさまは「すべての民」をご自分の弟子にしようと招いてくださいます。

イエスさまの弟子たちの宣教について語られている使徒言行録ではこう言われています。

「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」(使徒10:28)

イエスさまは、旧約聖書の約束を叶えるために、まずユダヤ人のもとへ来られました。そして彼らに拒まれることで、その救いをすべての人へと広げてくださいました。

では、ユダヤ人たちは神さまから見捨てられる存在となったのでしょうか。そうではありません。

イエスさまも12弟子も、異邦人への使徒パウロも、初期のキリスト教徒はみなユダヤ人でした。

ユダヤ人の救いについて、パウロはこう言っています。

「彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。」(ローマ11:11)

「兄弟たち、自分を賢い者とうぬぼれないように、次のような秘められた計画をぜひ知ってもらいたい。すなわち、一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」(ローマ11:25~26)

初めに、ユダヤ人。そしてユダヤ人の神さまへの背きによりその救いは異邦人へ。しかし、異邦人に嫉妬したユダヤ人が神さまに立ち返ることで、結果、すべての人が救われるというのです。

やはりイエスさまはすべての人の救い主なのです。しかし、今日の物語の段階では、まだイエスさまは十字架にかかっていません。だから、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と言われたのです。

しかし、今日の物語の主人公である女性は諦めず、イエスさまの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言いました。

初めて会った人にも関わらず、足元にひれ伏すなんて…。恥も外聞も捨てて、なんとか苦しむ子供を助けてほしいと、この母親の必死な様子が伺えます。

何とか出来るものなら、何とかしてあげたいとつい思うのが人情ではないでしょうか。まして、今まで何度となく悪霊を追い出してきたイエスさまです。きっとこの人ならなんとかしてくれると、女性も弟子たちもそう思ったはずです。

それなのに、イエスさまの口からはびっくりするような言葉が飛び出します。

「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」

小犬と聞くと可愛らしいペットの様子が目に浮かぶかもしれません。しかし、当時のユダヤ人社会では「犬」とは異邦人に対する侮蔑の言葉でした。「パンを取って」と訳されている言葉は「パンを放り投げて」とも訳されます。なんとも乱暴な印象です。

この女性は異邦人だけれども、イエスさまに「主よ、ダビデの子よ」と呼びかけました。イエスさまを旧約聖書に約束されている救い主だと認識していた。それくらいユダヤ教について知っている人だったのです。だから、当然、イエスさまの言葉が自分に、そして自分の大切な娘に向けられた侮辱の言葉だと理解したことでしょう。

なんてことを言うんだ!馬鹿にしやがって!と怒り出して帰ってしまったとしても無理はありません。でも、この人はそうはしませんでした。

彼女は言います。

「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

私は確かに小犬のようにあなたにとって取るに足りない存在かもしれない。でも、その小犬だって、

主人の食卓から落ちたパン屑はもらえるのです。だから、パン屑だっていい、それをください!

なんという機転の利いた、機知に富んだ答えでしょう。なんだかユーモアさえ感じさせます。

苦しみや、悲しみ、怒りなんかを、おかしみに変える。持たざる人の、捨て身の強さのようなものを感じます。

もしかしたら、思わずイエスさまも笑ってしまったんじゃないかなと思います。

また、この女性の言葉には、自分のプライドを捨て、たとえどんなに冷たい態度をとられても、イエスさまなら何とかしてくださる、という信頼を感じます。

そのような女性の姿を見て、イエスさまは言われました。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。そのとき、娘の病気はいやされました。

この物語から福音記者マタイは何を伝えたいのでしょうか。そして、この女性と同じ異邦人である私たちは何を受け取れるでしょうか。

一つは、神さまは私たちと対話してくださるお方なのだと言うことです。旧約聖書のアブラハムやモーセとしたように(創世記18章、出エジプト記4章)、神さまは問答無用で物事を進めるお方なのではなく、私たち人間と対話してくださる方なのです。

そしてもう一つは、救いは神さまの恵み、一方的な愛によるものだけれど、私たち受け取る側の姿勢も大事だということです。イエスさまは「しかたない、癒してあげよう」ではなく、「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言われました。イエスさまは困難な状況にあっても諦めず、イエスさまに縋りついていくこの人の姿勢を、「あなたの信仰は立派だ」と言ってくださるのです。そしてご自分の計画を変えてまで、この人の願いを叶えてくださったのです。

もしかしたら、イエスさまはこの人を試したのかもしれないなとも思います。「試す」と言う言葉には、なんだか嫌な印象があるかもしれません。しかし、時に試されるということが自分の成長に繋がることがあるのはないでしょうか。イエスさまも宣教を始める前に、荒れ野で試練を受けられました。

あえて冷たい言い方や侮辱したような言い方をして、この人の成長を促したのかもしれません。

また、異邦人であるこの人が、どれだけ冷たくされても諦めない姿を、弟子たちに、そして私たちに見せたかったのかもしれないなと思うのです。

私たちも異邦人、食卓の下の子犬のような存在です。でもその小さな私たちの、イエスさまへの信頼を、神さまは喜んでくださいます。私たちもこの物語の女性のように、どんな時も、イエスさまについて行くことができますように。

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