2025年3月2日 降誕節第10主日・公現後第8主日 マタイ福音書 14章22~36節

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、

その間に群衆を解散させられた。

群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。

夕方になっても、ただひとりそこにおられた。

ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。

夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。

弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、

恐怖のあまり叫び声をあげた。

イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

すると、ペトロが答えた。

「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」

イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。

イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。

そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。

舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

こうして、一行は湖を渡り、ゲネサレトという土地に着いた。

土地の人々は、イエスだと知って、付近にくまなく触れ回った。

それで、人々は病人を皆イエスのところに連れて来て、

その服のすそにでも触れさせてほしいと願った。触れた者は皆いやされた。

目次

<説教>「 恐れることはない 」

「5千人の給食」の後の出来事です。5千人の給食はこんな話です。舞台はイスラエルの北部、ガリラヤ湖周辺。イエスさまが人里離れたところにいると、イエスさまを慕ってたくさんの人が押し寄せてきます。彼らを憐れに思ってイエスさまが教えておられるうちに、夕暮れが近づいてきました。そこで弟子たちが群衆を解散させてくださいとイエスさまに頼むと、イエスさまは「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と言われます。しかし、弟子たちの手元には5つのパンと2匹の魚しかありませんでした。とてもではないけれど、皆の分はありません。するとイエスさまは天を仰いで賛美し、パンを裂いて分けると、すべての人が食べて満腹するまでになった。それだけでなく、残ったパン屑は12の籠にいっぱいになったという奇跡の物語です。そこにいた群衆は男性だけで5千人だったというので、「5千人の給食」と呼ばれます。子どもや女性も含むと2万人くらいになったのではないかとも思います。

食事が終わると、「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた」と書かれています。

イエスさまは一人で静かに祈りたい、そのように思っておられたようです。また、同じ個所について書かれているヨハネ福音書6章では、イエスさまの奇跡を見た群衆は彼を預言者だと思い、王に、ローマ帝国の支配に武力で対抗する政治的指導者に祭り上げようとしたけれども、それはイエスさまの目的とは違ったので人々から離れたのだと言われています。今日の箇所でイエスさまが弟子たちを強いて舟に乗せ、群衆と離したのは、そうした政治的熱狂に巻き込まれないようにと思われたのかもしれません。イエスさまの弟子たちも、イエスさまが救い主として、ダビデ王のような王となると思っていましたから(マタイ20:21、マルコ10:37)、弟子たちが勘違いしないようにとされたのでしょうか。そして、誰にも理解されないことに孤独を感じつつ、ご自分の十字架につくという使命に思いをはせながら一人祈っておられたのかもしれません。

さて、一方。舟に乗って向こう岸へと向かった弟子たちは逆風のために波に悩まされます。舟は陸から「何スタディオンか離れており」と書かれています。1スタディオンは約180~192m。ヨハネ福音書6章では25~30スタディオンと書かれていますから、5~6㎞前後の陸から離れた湖の上です。ガリラヤ湖は南北に約21㎞、東西に約13㎞の大きさと言いますから、ほぼ湖の真ん中で強風と高波のために立ち往生してしまっている、そんな状況です。

イエスさまの主だった弟子たちはガリラヤ湖の漁師でしたから、ガリラヤ湖にも舟を操ることにも慣れているはずです。そんな彼らがどうすることも出来なかったのです。夕方から夜明け頃までのけっこうな時間を逆風と波に進むことも、戻ることも出来ず悪戦苦闘していたのでしょう。

それを不思議な力でお知りになったのか、イエスさまは湖の上を歩いて弟子たちを助けに行かれます。当たり前のことですが、私たち普通の人間には水の上を歩くことなんてできません。しかし、神の子であるイエスさまにはそんなことができたのです。旧約聖書には海を歩く神さま(ヨブ9:8、ハバクク3:15、詩編77:20、イザヤ43:1~2・16、シラ24:5~6)についての描写があります。イエス・キリストの神性を表す物語です。そしてその不思議な力は、ご自分を誇示するためでなく、弟子たちを救うために用いられます。

しかし弟子たちはイエスさまがそんなことをお出来になるとは知りません。まして明け方のまだ薄暗い中です。水の上を歩いて近づいてくる人影に、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげるのも無理はありません。いや、明るい中ではっきりとイエスさまの姿を見たとしても、同じだったでしょう。

そこでイエスさまは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と話しかけられました。

この「わたしだ」と訳されている言葉は、原語のギリシャ語では「エゴー・エイミ」という言葉です。これは旧約聖書の出エジプト記で神さまがモーセにご自分を顕された時の言葉、「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出エジプト3:14)と言う言葉と同じです。

私たちの信じる神さまとはどのような方か。それは私たちを在らしめ、また私たちといつも共にいてくださるお方です。私たちといつも共に居て、「安心しなさい。恐れることはない」と言ってくださるのです。

そうだ、今までも様々な奇跡を目の当たりにしてきたではないか。私たちの先生はただ者ではない。安心した弟子のひとり、ペトロは調子づいて答えます。

「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」

そんなことが出来るの!?と思いますが、そこは一番弟子のペトロ。イエスさまが言われることなら出来るだろうと信頼していたのでしょう。イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進みます。ペトロも水の上を歩いたのです!

普通ではありえないことをご自分でなさるだけでなく、弟子たちにもさせてくださるイエスさま。

しかし、ペトロはその道中で強い風に気がついて怖くなりました。するとその途端に沈みかけ、「主よ、助けてください」と叫びました。

なんとも滑稽な場面です。このペトロという弟子は、一番弟子であるにもかかわらず、お調子者でよく失敗する人として聖書に描かれています。何とも憎めないキャラクターです。彼は私たち聖書の読者が自分を重ねて読みやすいキャラクターなのではないでしょうか。ペトロは私たち読者、信徒の代表のような人です。それでも、数歩かもしれませんが、水の上を歩けたというペトロの、主イエス・キリストへの信頼は凄いなと思います。私なら、一歩も歩けず、即沈むことでしょう。

さて、イエスはすぐに手を伸ばしてペトロを捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱咤激励しました。そして、二人が舟に乗り込むと、先ほどまで吹いていた強い風が静まり波も穏やかになりました。この方は風や波すらも支配されるお方なのだ…。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝みます。

この物語は私たちに何を教えてくれているのでしょうか。古くから舟は教会の象徴としてとらえられてきましました。また、舟は私たちの人生のたとえとして用いられることもあります。

ですから、教会や私たちの人生のたとえとして、この物語を読んでみます。

夕暮れ、これから夜に向かっていくときに、イエスさまは私たちを強いて暗い湖へと押し出します。

私たち教会の進む先も、また、私たち信仰者一人ひとりが歩む先も、先の見えない暗い夜のようなものかもしれません。

どれだけ舟の扱いに慣れ、進む先の地形もよく知っていると思っていても、強い向かい風と波に邪魔をされ、進むことも戻ることも出来ず、長い間、立ち往生してしまうこともあるでしょう。

漕いでも漕いでもどうにもならない、沈まないように堪えるだけで精一杯、早く嵐が止んでくれることを待つしかない、祈るしかない、そんな時もあるでしょう。

それでも、イエスさまはそのような私たちを知っていてくださり、助けに来てくださる。

そして大丈夫、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と励ましていてくださる。

イエスさまはご自分を「わたしだ」、「わたしはある」と、神さまのもとから来た神の子だと示してくださいました。目には見えなくても、神さまは、神の子イエスさまは、常に私たちと共に居てくださいます。

そして、「来なさい」とご自分のもとへと招いてくださる。それは水の上を歩くような、途方もないことなのかもしれません。それでもイエスさまの姿に励まされ、踏み出してみると、自分ではできないこともさせてくださる、それがイエスさまの招きなのかもしれません。

その歩みは、はじめは順調に行っていても、途中で世の荒波、強い向かい風に気づき、恐怖から沈み始めることもあるでしょう。神の子イエスさまではなく、困難に目を止めるとき、私たちは恐怖に駆られ、途端に歩むことも出来なくなり、沈み始め、「主よ、助けてください!」と叫ぶしかできなくなる。

その度に、イエスさまはすぐに手を伸ばして私たちを捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と𠮟咤激励してくださる。信仰の薄い者をも救い、用いてくださる私たちの神さまに、叱咤激励されながら、なんとか歩んでいくのが教会であり、私たち一人ひとりの歩みなのではないでしょうか。

それでも、主は私たちを見捨てず、いつも共に居てくださる。主が共に居てくださるなら、どれだけ強い風も必ず収まり、目指す先に必ずたどり着ける、それが私たちの希望です。

弟子たちは困難を通して、「本当に、あなたは神の子です」という告白をしました。

困難には出来るだけ遭いたくないと思うけれども、困難は私たちに、いつも共にいてくださる主に気が付かせてくれるきっかけにもなるようです。

私たちの信仰の先輩であるパウロは言っています。「私たちは弱い時にこそ強い」(Ⅱコリント12:9)、

なぜなら、神の子が共に居てくださることに、主の恵みに気が付くことができるのだから。

困難の時にこそ、強い風ではなく、共におられるキリストに目を向け、「恐れることはない」と言ってくださる主に信頼して、歩んでいきましょう。

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