2025年3月16日 受難節第2主日・四旬節第2主日 マタイ福音書12章22~32節

22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、

イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。

23 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。

24 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、

「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。

25 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。

26 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。

27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。

28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。

29 また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。

30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。

31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。

32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

目次

<説教> 「神の国はあなたたちのところに来ている」

あるとき、イエスさまのもとに悪霊にとりつかれて目が見えず口が利けない人が連れて来られました。当時は、病気は悪霊によって引き起こされると考えられていたそうです。

イエスさまが悪霊を追い出すと、その人はものが見えるようになり、ものが言えるようになったそうです。それを見た人々は驚き、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言いあいました。

「ダビデの子」というのは、メシア・救い主・キリストを指す言葉です。旧約聖書の預言書、イザヤ書の中にこうあります。

弱った手に力を込めよろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。

「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。

敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる。」

そのとき、見えない人の目が開き 聞こえない人の耳が開く。

そのとき 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。

(イザヤ35:3~6)

神さまに背き、神さまから離れて滅びさったイスラエル王国とユダ王国。しかし神さまは決して見捨てず、また必ず帰ってきてくださる。どうしてそれが分かるのか。その時には、悪は敗れ、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのような奇跡的な出来事が起こる。恐れるな、神さまを信頼しなさいと言われています。

ダビデの子、救い主とは神さまがいつも共にいてくださる。だから、救い主が来るときにもそのような不思議なことが起こる。人々はそのように望みをかけていました。そして、そこにイエスさまが現れた。イエスさまは悪霊を祓い、病人を癒した。彼こそ、神に約束された救い主に違いない!

事実、そうです。イエス・キリストこそは約束された救い主です。しかし、その奇跡的な出来事を見てもなお、それを受け入れない人たちがいました。ファリサイ派と呼ばれる人たちです。彼らは下級祭司や市井の人々からなり、熱心に聖書を研究し、旧約聖書の掟、律法を守ることを重視しました。しかし、掟を守ることばかりに囚われ、なぜその掟が与えられたのか忘れてしまったようです。

ある時、働いてはならないとされる安息日に病人を癒したイエスさまを見とがめたファリサイ派の人々、しかし神の子イエスさまによってその誤りを指摘されます。神さまの掟は要約すると、神さまを全力で愛することと、隣人を自分のように愛すること。だから、安息日であっても病人を癒すことは許されている。ただただ書かれたことを守り、そして守れない人を罪人だと言って裁くのではなく、愛を中心にして考えなさいとイエスさまは教えてくださいました。

しかし、そのことを逆恨みしたファリサイ派の人々はイエスさまの命を狙い始めます。彼らはイエスさまを付け回し、何か律法に背いたりしないかと攻撃する口実を見つけようとあら捜しを始めたのです。聖書はそのような人の暗い心を「ねたみ」と言う言葉で説明しています。サウル王がダビデの命を狙ったように、10人の兄弟が弟のヨセフの命を狙ったように、ファリサイ派の人々はイエスをねたみ、敵意と害意を抱き、執念深くつけ狙ったのです。

彼らの執念深い敵意は、やがてイエスさまを十字架につけ、殺すことに繋がります。なんて酷い、とんでもないことだと思いますけれども、他人事ではない。ファリサイ派の人々だけが特別に悪い人たちだったのではないと思います。今日でもインターネットの匿名の書き込みなどでもこうした悪意に支配されている様子は多数見受けられますし、また、残念ながらこのような暗い思いに支配されてしまった経験は、私にもあります。自分の過ちを認められず、誰かに恥をかかされたと思い、逆恨みし、妬み、たとえ相手が正しいことをしていても、そのことが受け入れられない。この時、彼らもそのような思いで、イエスさまを憎しみの目でみつめ、イエスさまを褒める人々に向かって、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言いました。

ベルゼブルとは列王記下1:2に出てくるバアル・ゼブブ(列王記下1:2)のことでしょう。バアルとはカナン人たちの信じていた多神教の神の尊称でした。ファリサイ派の人々は、イエスは神を名を騙る悪霊の頭の力を借りて奇跡を起こしていると揶揄、根拠のない誹謗中傷をしたのです。「あいつは悪霊の力を使っている、悪霊に支配されている」そのようにイエスさまの悪口を言う彼ら。しかし、実際には彼らこそが、愛である神さまから自分たちを引き離す悪霊・サタンに支配されていたのです。

イエスさまは彼らの暗い考えを見抜き、諭すために言われます。

「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。もしサタンがサタンを追い出すなら、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。」

内輪もめはどんな国でも町でも家でも滅びる原因となります。サタンは賢いので内輪もめはしません。だから悪霊の力で悪霊を追い出すことなどできません。当時、悪霊祓いは病気の治療として一般的な方法で、ファリサイ派の中にも悪霊祓いをする人々がいたようです。もし悪霊の力で悪霊を追い出しているというのなら、ファリサイの悪霊祓いをしている人々にも同じことが言われてしまうでしょう。彼らはイエスさまを悪く言いたいあまりに、自分たちの仲間の悪口をも言ってしまっているのです。

イエスさまは更に言われます。

「しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。 」

悪霊を祓うことができるのは神さまの力だけです。もし今、イエスさまが神の霊、聖霊によって悪霊を追い出しているなら、神さまは私たちのところに居られる。神の国は私たちのところに来ているということです。神の国とは、私たちが神さまの支配を受け入れることから始まるのです。

また、イエスさまが悪霊を追い出すのは、私たちを悪霊から取り返して神さまの子とするためです。

物騒なたとえですが、イエスさまの地上に居られた時代にはよくあることだったのでしょう、イエスさまは強盗のたとえを用いて教えます。悪霊を追い出し、私たちと言う戦利品を勝ち取るのです。

イエスさまに味方する者は神さまに味方し、イエスさまに敵対する者は神さまに敵対しています。

神さまの目的は罪人を追い散らすことではなく、集め、赦し、神さまの子とすることでした。

そしてイエスさまは言われます。

「だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」

「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦される」「人の子・イエスさまに言い逆らう者は赦される」、なんと寛容な方なのでしょうか。私たち人間は皆、罪があり、今日のお話の中のファリサイ派の人々のように、神さまを冒瀆してしまうことがある。イエスさまに言い逆らうことがある、しかし、それでも神さまは赦してくださる。

私たちの罪や冒瀆、イエスさまへの反抗は赦してくださる。なぜなら、イエスさまは罪人を許し、招き、神の子としてくださるためにこの世に来られたのだから。今日のお話の後、イエスさまは十字架につけられ、殺されてしまうけれども、それは私たちすべての人間の罪を身代わりに負ってくださるためでした。神の子イエスさまが死ななければならないほどに、私たち人間の持つ罪は深刻なものなのです。けれども、神さまは私たちへの愛によって、私たちを赦し、救ってくださった。その中には、今日の箇所や受難の時にイエスさまと敵対した人々や、イエスさまを裏切った弟子たちも含まれています。どんな人も救ってくださる。だからこそ、イエスさまはすべての人の救い主なのです。

「主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい。

永久に責めることはなく とこしえに怒り続けられることはない。」(詩編103:8~9)

と詩編に歌われている通りです。

しかし、こうも言われます。「“霊”に対する冒瀆は赦されない」「聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」、なんだか恐ろしいことを言っておられるようにも感じます。イエスさまはこの言葉を通して、私たちに何を教えておられるのでしょうか。

今日のところで、ファリサイ派の人々はイエスさまを妬むあまりに、神の霊、聖霊の働きを否定しました。神さまの救いを否定しました。イエスさまが来られたことで、神の国は来ているのに、神さまが救いの御手を差し伸べてくださっているのに、それを認めず受け入れない。「大丈夫だ、わたしはあなたを赦した」と神の子、救い主であるイエスさまが言ってくださるのに、その赦しを受け入れないなら、一体誰が私たちを赦し、救うことができるのでしょうか。

大丈夫、目に見えなくても神の霊、聖霊は今も私たちの間で生きて働いてくださっています。

パウロは『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない』と言っています(Ⅰコリ12:3)。ということは、私たちがイエス・キリストを信じるとき、そこには聖霊が働いてくださっており、神の国は私たちのところに来ているのです。「神の国はあなたたちのところに来ている」と言われるイエスさまを信頼し、今週も一緒に歩んでいきましょう。

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