2025年3月23日 受難節第3主日・四旬節第3主日 マタイ福音書16章13~28節

イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。

弟子たちは言った。

「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」

イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」

シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。

すると、イエスはお答えになった。

「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。

わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。

陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。

あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。

すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。

「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

イエスは振り向いてペトロに言われた。

「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」

それから、弟子たちに言われた。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。

自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。

人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。

はっきり言っておく。

ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

目次

<説教>「イエスは私にとって何者なのか」

今日の箇所はペトロのキリスト告白として知られるところです。

今日の物語の舞台となったフィリポ・カイサリアはガリラヤ湖から北に約40㎞、ローマ属州だったシリアに近いパレスチナの北端です。ローマの初代皇帝アウグストゥスからヘロデ大王に与えられた都市で、ヘロデはアウグストゥスの像を安置した神殿を造ったそうです。また、ギリシャ神話の牧神パンの神殿があったそうですから、もともとユダヤ人ではない、異邦人の多く住む地方だったのでしょう。

イエスさまはユダヤ人の少ない地方に弟子たちを連れていき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねます。

「人の子」とはイエスさまがご自身のことを指して使う呼び方です。旧約聖書には二つの意味で使われています。一つには、私たちと同じ、ごくごく普通の人間一般を指す言葉として(詩編90:3など)。そしてもう一つには、救い主を指す言葉として(ダニエル7:13)。イエスさまは、積極的にご自分が何者であるか、人々に明かそうとなさいませんでした。人の子と言う言葉も、ただ聞いただけでは普通の人を指していると理解されたことでしょう。でも、イエスさまは後から考えれば分かるような仕方でご自分のことを啓示しておられました。今日のところで、ユダヤ人の少ない地方に行ったのも、弟子たちにだけご自分のことを密かに示そうとされたのかもしれません。

イエスさまとは一体何者なのか。聖書ではいろいろな人がそのことを言い表します。イエスさまが誕生したとき、東方から拝みに来た占星術の学者たちは「ユダヤ人の王」と言いました。イエスさまが洗礼を受けたとき、「これはわたしの愛する子」と神さまから言われました。悪魔や悪霊も「神の子」と言いました。人々は「主よ」「先生」「ダビデの子」「大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言ったり、「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「エレミヤだ」「預言者の一人だ」と色々なことを言いました。

イエスさまが神の子であることは、聖霊からも悪霊からも示されていましたが、この時点ではまだ人々には隠されたままでした。人々はイエスを洗礼者ヨハネかエリヤ、エレミヤのような預言者の再来だと考えていました。エリヤやエレミヤは過去の預言者ですが、世の終わりの日の前に再臨すると考えられていました。

イエスはご自分に従う弟子たちに向かって、「人々はいろいろなことを言うけれど、私に従っているあなたは私を何者だと思っているのか」と聞きました。

イエスさまの一番弟子であるシモン・バルヨナが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」、「あなたは私たちの救い主、今も生きておられる神さまの子どもです」。

イエスさまはそれを聞いて言われます。

「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

シモン・バルヨナとはペトロとして知られているイエスさまの一番弟子の本名です。イエスさまによってケファというあだ名を貰いました。ケファと言うのは、当時の公用語の一つであったアラム語で岩を表わす言葉で、新約聖書の書かれたギリシャ語ではペトロと言います。

イエスさまは彼に岩と言うあだ名を与え、彼に向って「幸いだ」と語りました。ペトロは確かにイエスさまが何者かを正しく言い当てたのです。

しかし、それは彼が何か特別優秀な人だったからではありません。イエスさまは、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言っておられます。神ご自身が、私たち人間にご自分のことを顕してくださる、教えてくださる。キリスト教では誰か霊的に特別な人にだけ神さまのことが分かるのではなく、神さまご自身が私たちの前に現れてくださる時に神さまが分かるのだと考えます。これを啓示と呼び、キリスト教は啓示宗教だと言われます。

ペトロが特別凄い人だったからイエスさまの正体を言い当てたのではなく、神さまがイエスさまとは何者なのかをペトロに教えてくださったのです。それと同じように、私たちがイエスさまを、自分にとっての「メシア、生ける神の子」だと信じるとき、それは私たちが努力して悟ったのではなく、神さまが私たちに教えてくださっているのです。だから、イエスさまはペトロに言われた、「幸いだ」という言葉は私たちにも向けられています。

シモン・ペトロの、イエスさまに対する「あなたはメシア、生ける神の子です」との信仰告白、これは私たちの信仰の基礎であり、核心です。「イエスは私にとって、私たちにとって何者なのか?」

、「イエスはキリスト、私の救い主であり、今も生きて働いてくださっている神さまの子どもです」。

この信仰によって、教会が建てられています。もし、この信仰がなければ、私たちは出会うこともなかったかもしれない。私たちは、イエスさまが私たちの救い主であり、私たちを生かしてくださっているという、神さまから与えられた一つの同じ信仰によって結び合わされた信仰共同体です。

これはとても素敵なことだなぁと思います。出身も年齢も経験も価値観も違う者同士が、同じ信仰によって一つとされる。そこには上下も優劣もありません。まさに神の国だと思います。どんな人も罪人であり、どんな人も罪赦されて神さまに愛されて神さまの子とされている。そのためにイエスさまはこの世に来てくださったのです。

この確信には、陰府の力も対抗できないとイエスさまは言われます。イエスさまは、「メシア、生ける神の子」。この確信は死、陰府の力にすら打ち勝ちます。新しい命の初穂たるキリストは死を打ち破り、彼の後に続く者のために道を開いてくださいました。

「陰府の力」と訳されている言葉は、直訳では陰府の門。そこから鍵がイメージされます。鍵は家の主人が管理人に預け、管理人が持つもので(イザヤ22:22)、当時の人々は天の国の門の鍵を、聖書の教師であるファリサイ派の人々が持っていると考えていたようです。しかし、ファリサイ派の人々は伝えられた掟を守ることに囚われ、他者を罪人だと裁いていました。だからイエスさまは言われます。

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。人々の前で天の国を閉ざすからだ。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない。」(マタイ23:13)

イエスさまを遣わした神さまの目的は、人の罪を赦し、天の国に招いてくださることでした。

だから、神さまはファリサイ派の人たちではなく、ペトロに代表されるイエスさまを信じる人々に天の国の鍵を預けてくださいまいました。天の国の鍵を預けられたものの使命は、人々の前で天の国を開き、人々を天の国に入れることです。

イエスさまは、「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われました。「つなぐ」とは許さないこと、「解くこと」とは許すことを意味しています。私たちには許すことも、許さないことも出来るからこそ、許しなさいとイエスさまは言っておられるのです。

さて、弟子たちにはイエスさまが救い主であることが明かされましたが、イエスさまはご自分が救い主であることは誰にも話さないようにと言われました。それはまだ、十字架にかかる時が来ていなかったからです。そして、イエスさまはご自分の受難と死、そして復活について弟子たちに教え始めました。しかし、それを聞いたペトロは「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言いました。

ペトロはイエスさまのことを、ダビデ王のような軍事的な指導者、ユダヤ人の王としての救い主だと勘違いしていたのです。また、復活についても理解していませんでした。神さまの御計画は私たちの理解を越えていますから、無理もありませんが、私たちも自分の理解できる範囲に、神さまを押し込めようとすることがあるのではないかと思わされます。

ペトロの言葉を聞いたイエスさまは、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。

神のことを思わず、人間のことを思っている」と𠮟ります。さっきまで、褒められていたのに…。

一番弟子でありながら、イエスさまのことを理解していないペトロ。調子に乗り、よく失敗してしまう。後にイエスさまが捕らえられた時には、ペトロはつまずき、イエスさまを裏切ってしまう。でも、そのような人でも、イエスさまは決して見捨てませんでした。

後に復活したイエスさまは、12弟子の中では一番最初にペトロに会われたそうです(Ⅰコリント15:3~5)。イエスさまの愛と赦しによって立ち直ったペトロは、弟子の代表として、皆を励ます人になりました。つまずき、失敗した者をもイエスさまは赦し、用いてくださるのです。彼を立ち直らせ、新しく生きる者としてくださったイエスさまの愛と赦しは、私たちにも注がれています。

私たちも時につまずき、失敗します。でも、大丈夫。ペトロを赦して用いてくださったように、イエスさまは私たちのことも赦し、用いてくださいます。

イエスさまは私にとって、私たちにとって何者なのか?

神の子イエスさまは私の、私たちの救い主。すべての罪を赦し、愛し、私たちを神の子としてくださる方。そのことを忘れず、今週も主イエス・キリストに従って歩みましょう。

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