「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。
御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
<説教>「主の祈り」
今日は私たちがいつも祈る「主の祈り」についてのお話です。この祈りは主イエス・キリストが教えてくださったものとして大切にされ、今日私たちが普段祈る祈りの基本になっているものでもあります。この祈りは、マタイによる福音書では山上の説教の中で語られており、施し、祈り、断食というユダヤ教にとって大事な宗教的行為についての教えの間に挟まれています。ここではその三つのことを行いなさいと言われているのではありません。それらを行うことは当然行うものとして、その際の心構え、態度についての言われているのです。
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
人から褒められるというのは、照れくさいけれど嬉しいものです。嬉しいな、次も頑張ろう!と、何かをするときの良い原動力となります。子どもたちと接するにつけ、褒め上手になりたいなと思います。
でも気を付けたいことは、施しなどの善行は、本来、善行をすることそれ自体が目的のはずです。それが、善行をすることではなくて、褒められることを目的になってしまったらどうでしょう。もしも善行をしても褒められなかったら、とたんにやる気が削がれてしまうのではないでしょうか。
褒められそうだからしよう。褒められなさそうだからしない、というのでは本末転倒です。褒められようと、褒められまいと、善いことをしたんだから、それでいいんだ。そう思えたら素敵です。そのような態度を、神さまが褒めてくださる、そうイエスさまは教えてくださっています。
また祈る時にも、他人に見られて立派な人だと思われようとしてはならないと言われています。
祈りは神さまとの会話だと言われます。他者のためにとりなしを祈ったり癒しを求める際に、相手の方に安心してもらおうと聞こえるように祈ったり、みんなで心を合わせて一緒に祈るということはありますが、その目的は誰かに褒められるためにするものではありません。そうではなく、神さまに聞いてもらうことが目的ですよね。
さて、「主の祈り」についてです。イエスをキリスト、神の子であり救い主であると信じるクリスチャンとはどういう人か?それは「主の祈り」を祈れる人だと言った牧師がいます。なんだ簡単じゃないかと思われた方もいるかもしれません。主の祈りなら教会学校で覚えたし、早口でだって言えるぞ。「天にまします我らの父よ、願わくば御名を…」。確かに小さな子どもでも覚えられる短い祈りです。
でもこれはイエスさまが私たちに教えてくださった、大事な祈り。どうせなら、その意味を味わいながら祈りたいと思います。そして、言葉の意味を味わいながら祈るなら、簡単に口にするには憚られるような、とても恐ろしい祈りでもあることに気が付きます。私たちが住むこの世界に対立するような在り方が示されているからです。
日本語では「天におられる」が先に来ますが、英語では「私たちの父よ」と始まります。私の父、ではなく私たちの父です。これは個人の祈りではなく、共同体の祈り、わたしたち皆の祈りです。神の子イエスを通して、私たちは神に「父よ」と呼びかけることが許されています。これは「アッバ」、イエスが使っておられたアラム語では小さい子どもたちが使う幼児語だったそうで、日本語にするなら「お父ちゃん」、「パパ」といった親しみのある言葉です。
でも単なるお父ちゃんではありません。この世では肉親との関係が上手くいかなくて、神に対して「父」と呼びかけるのが辛いと言う人もいます。しかしイエスの父は天におられる方。私たち人間の関係を越えた本当の父です。現実の肉親との関係がどうであれ、神は私たちが理想とする肉親以上に、私たちを愛しておられる親のような方です。そして同時に私たちの思いを越えて働いておられるお方です。私たちの思い通りになる、自動販売機のように私たちが欲しいときに欲しいものを対価として与えて下さる方ではありません。時に私たちは自分が何を願っているのかわかっていないということがあります。子どもが砂糖を欲しがる時に、望むままあげていたら虫歯になったり、体を壊したりするでしょう。私たちの親である神さまは、私たち以上に私たちのことを知っておられ、本当に必要なものを、ふさわしい時に与えて下さるお方です。
「御名が崇められますように」。神の名が聖なるものとしてすべての人に認知され、唯一真のイエス・キリストの神が崇められますように。私たちの住む世界には国旗や国家、武力や権力、お金、社会常識、そして自分自身など多くの偶像に満ちていますが、真の神こそが崇められますようにとの祈りです。この祈りを祈るとき、私たちは他の偶像たちと敵対し、迫害される存在になります。
「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。御国、神さまが支配される神の国がこの地上に実現し、愛である神の御心、正しい善い世界になりますようにとの祈りです。しかし、私たちは今、御国がこの場所に来るとしたら、その御国を受け入れる準備が出来ているでしょうか。神の国は来て欲しい、でも今ではない。そう思っていないでしょうか。私も自分自身に問いかけるとドキドキします。
イエスさまはイエスさまが悪霊を払ったとき、そして私たちがイエスさまのみ言葉を聞くとき、そこに神の国が来ていると言われました。じゃあなぜこの世はこんなにも苦しいんだろう、神なんて本当にいるんだろうか。そう思ってしまうかも知れません。私たちは「すでに」と「いまだ」の間に生きているのだと言います。神の救いの業はイエスさまを通してすでに始まっているが、完全な神の国が来られるのはこの世界が終わる終末の時。それがいつ来るかは神のみがご存じで、神の子であるイエスにすら知らされていない。でも私たちは神さまに招かれ、神の国の前触れをイエスさまを通してすでに垣間見ている。私たちは神さまが善い方であり、信頼にたる方だと言うことを知っています。愛のように目には見えなくても、私たちと一緒にいてくださる方だと知っています。
神の国とはどんなものでしょう。神の国は宴会に招かれた善い人たちが、その招待を断って、代わりに私たち罪人が招かれた宴会です。本当なら神の国に入る資格のない私たちが、神の愛によって招かれた宴です。罪人の集まりですから、お互い気にくわないなと思うこともあるでしょう。でも、そんな私たちすべてを愛し招かれるのが神さまです。私が気にくわない、どうも好きになれないと思う人とも同じ食卓で家族として食事をするのです。御国が来ますようにとはそういうことです。私の思いを捨て、神さまの御心が行われるようにと祈ることです。
「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」。「その日その日に必要な食料を今日も与えてください」。私たちは即物的なお願いは、神さまにしてはいけないのではないかと思ってしまうかもしれません。しかし神さまは人が生きるのにパン、食料が必要なことをご存じで、それを祈りなさいと教えておられます。ここで大事なのは食料、生きるのに必要なすべては神から与えられていると言うことです。普段私たちが口にする食事、それは誰かが料理し、誰かが育てたものですが、そのすべては神から与えられているものです。旧約聖書でヘブライ人たちがエジプトから脱出し、荒野で彷徨っていたとき、神さまはマナという食料を毎日、必要な分だけくださいました。私たちはついつい先のことまで心配して、不安になるけれど、その日に必要な分だけ、神に願いましょう。そんなに多くはいらないはずです。そして「わたしたちに必要な糧」ですから、足りない人と分け合えたらと思います。イエスさまは空腹な人を憐れに思い、弟子たちに「あなたがたが与えなさい」(マルコ6章37節)と言われます。私たちの社会も、自己責任論ではなく、社会全体で助け合うものになってほしいと思います。
「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」。主の祈りでは、「われらが罪を赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」。キリスト教でいう「罪」とは神さまに背いて自己中心的に生き、自らを神のように振る舞って生きることですが、イエスさまは「罪」を「負い目」、つまり神への「負債」「借金」と表現しておられます。私たちの罪は一生かかっても返済できないほどの多額な借金を神さまにしているようなものだとイエスさまは言われます。でも、それを神さまはチャラにしてくださった。だから私たちも、他者からの借金のような諸々のことを赦しなさいと言われるのです。当然のように赦すことが前提なのです。とっても難しいなと思います。あの人にあんなことをされた、言われた。悔しい、仕返ししてやりたい。私たちはそう思います。でも神さまはそうではない。
神さまはイエス・キリストの身代わりの十字架によって、私たちの罪を赦してくださいました。神さまは大事な大事な独り子を、罪によって滅び行く私たちの代わりに差し出された。イエスさまは私たちの罪のために、罪のせいで死なれた。それは言い換えれば、私たちがイエスさまを殺したようなものです。そう考えると、私たちは誰一人、他人に誇れるような清い人間ではありません。自らの罪のために、滅びるはずだった私たち。
でもその私たちを神さまは愛して、赦して下さった。そして家族として、同じ食卓につくようにと招いて下さっています。イエス・キリストを真ん中にした神さまの家族。神さまに愛されている同じ家族として、お互いに、赦しあいなさい、愛し合いなさい、大切にし合いなさいと神は言われます。
私たちが悪に誘惑されるとき、愛である神さまから遠ざかろうとしてしまいます。そんなとき、私たちを愛し、私たちを赦し、私たちの負い目を、命をかけて償ってくださったイエスさまを思い出しましょう。大丈夫、神さまはいつも私たちと共におられます。悪は神さまには勝てません。国も力も栄光も、全ては神さまのもの。私たちの心を、いつも愛である神さまが支配してくださいますように。主が教えてくださった「主の祈り」を私たちが喜んで、心から祈ることができますように。
