讃美歌21: 419番(こ122)、 337番(こ92)、 528番
<招きの言葉: エフェソの信徒への手紙 4章5~6節>
主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。
<CS聖書: ヨハネ福音書 3章1~8節>
さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
<聖書: ルカ福音書 24章44~53節>
イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、
必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。
「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。
わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。
高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
<説教>「キリストの昇天」
今週は、アジア・エキュメニカル週間とされています。これは超教派のアジアキリスト教協議会が定めたもので、日本キリスト教協議会(NCCJ)に属する私たち日本基督教団の教会も、アジアにある諸教会と地域の課題を覚えて祈ろうとする日です。
エキュメニカルとは、ギリシャ語で「世界」を意味する語に由来し、その言葉は「家」を意味する言葉に由来しているそうです。エキュメニカル運動、これは教会一致運動と呼ばれます。神さまに造られた世界、同じ家に住む、神さまの家族として、教団教派を越えて協力し合おうという運動です。
一致と言っても、違いをなくして何か一つに統合しようというのではありません。それでは神さまが与えてくださった豊かな多様性は台無しになってしまいます。それぞれの教団教派の持つ、違い、歴史や文化や礼拝スタイルなどの違いを認め合い、尊重し合いつつ、主にあって一致しようとするものです。今日の招きの言葉にあるように、「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(エフェソの信徒への手紙4章5~6節)。
私たちに違いはあっても、私たちの主人はお一人、私たちが主から頂いた信仰も洗礼も一つです。信じ方や強調点は違っても、そこに優劣はなく、どれかだけが絶対に正しいということはありません。『聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」と言えない』(Ⅰコリント12章3節)のですから、イエスは主であると告白しているクリスチャンは皆、聖霊なる神さまによってそうさせていただいているのです。私たちは誰も自分を誇ることは出来ないし、誰かを見下すことも出来ません。だからこそ、「裁いてはならない」「互いに愛し合いなさい」と主は言っておられます。
違いがあっても、それは神さまが備えて下さったものです。様々な教団教派の教会も、同じ教団内の教会も、教会に集う私たちも、皆、イエス・キリストの体の部分です。『神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです』(Ⅰコリント12章18~22節)と言われています。
誰かが他の人の上に立ち、誰かを踏みつけにして、無理やりに一つに一致させるのではなく、唯一の主イエス・キリストを頭として、それぞれの違いを喜び、違いに学び合う一致、それを目指していきたいと思います。
また特に、今週はアジアの諸教会と地域を覚える時です。アジアは古代ヨーロッパから見て東の地域を指し、広大な地域です。私たちの住む日本も、パレスチナもアジアです。同じアジアに住む神さまの家族として、色々な地域とそこに住む方々を覚えてお祈りしていただければ幸いです。
さて、先週、5月29日(木)はイエス・キリストの昇天日でした。これはイエス・キリストの復活から40日目のことだとされています。今日はそのキリストの昇天についての記事です。
キリスト教の信仰は神さまとの約束と、その成就を土台としています。旧約聖書、モーセの律法と預言者たちと詩編の中にある、神の子イエス・キリストを指し示す言葉はすべて実現するのだとイエスさまは十字架にかかって死ぬ前に言っておられました。
そしてそのお言葉通り、十字架刑によって私たちの罪の身代わりとして死に、私たちの罪を赦し、復活して永遠の命を証明してくださった。この方の言っておられたことは本当だった!それが弟子たちの、そして私たちの信仰の基です。
しかし、復活したイエスさまと出会うだけでは、イエスさまを理解するのに不十分なようです。
空になった墓の前でイエスさまに出会ったマグダラのマリアも、エマオへの途上で復活したイエスさまに出会った弟子たちも、はじめはイエスさまに気が付きませんでした。そして、イエスさまと出会った11人の弟子たちも信じられず、不思議がっていました。
彼らが聖書に書かれていたこと、イエス・キリストが言っておられたことが本当だったと悟るために、イエスさまご自身が、彼らの心の目を開いて、そして言われました。
「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。
わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。
高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
高名な12弟子たちも、弟子たち自身で悟ったのではありません。イエスさまに心の目を開いてもらって、はじめてイエスさまが言っておられたことが分かるようになったのです。私たちも同じです。自分の力だけでは、自分の知恵だけでは、神さまのことは分からない。でも、だからこそ、心を低くして、みんなでイエス・キリストに従うことができるのです。自分の力じゃない。すべては神さまの恵みなのです。私たちは誰にも自分を大きく見せる必要もなく、誰も卑下する必要もない。神さまの前ではみんな同じ。みんな赦された罪人で、みんな神さまに愛されている神さまの子ども。
このことは私たちを色々なものから自由にしてくださる、真理です。
そしてその恵みは特定の民族にだけ与えられるのではなく、すべての人に与えられます。それは、「世界のすべての国民は彼によって祝福に入る」(創世記18章18節)という旧約聖書のアブラハムへの約束の成就です。そのために、イエスさまは私たち弟子を、神さまの救いと恵みの証人として用いてくださっています。
「罪の赦しを得させる悔い改め」。「罪」とは「的外れ」のことで、「悔い改め」とは「方向転換」のこと。愛である神さまから離れてしまったところから、方向転換して、「あなたを赦す、帰っておいで!」という呼びかけに応えて、愛である神さまに従って生きようとすること。
大丈夫!神さまは赦してくれている、だから安心して神さまのところへ帰ろう!そして一緒に生きよう!という呼びかけ、それが福音、良い知らせです。
神さまの救いの証人となること、それは私たち自身の力だけで出来ることではありません。だから、イエスさまは「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と言われました。
「父が約束されたもの」「高いところからの力」、これは神さまの霊、聖霊のことです。
聖霊は見えない神さまの力だと言われます。しかし、単なる力ではありません。神であり、風のように自由なお方です。そして私たちを力づけ、私たちの背中を押し、イエスさまを証しする勇気を与えて下さり、イエスさまに従う道、互いに愛し合う道へと導いてくださるのです。その聖霊なる神さまが、天へと帰られるイエスさまの代わりに弟子たちに与えられる。そうイエスさまは約束してくださいました。
その約束が実現したことを祝うのが、来週のペンテコステ、聖霊降臨日です。イエスさまは天へ帰られたけれど、私たちを見捨てたわけではない。世界の創造主である父なる神と、子なる神イエス・キリストと、聖霊なる神とは一つです。私たちと一緒に居られる聖霊を通して、私たちはいつも神さまと、イエスさまと一緒にいるのです。
このことは信じている人だけに限った話ではありません。ここには洗礼を受けた人だけでなく、洗礼を受けようか迷っている人、受けたいけれど家の事情で受けられない人、まだ考えていない人、いろいろおられます。でも、この世界は、この世界を造られた神さまのもの。聖霊なる神さまは風のように自由に働かれる方であり、この世界に満ち満ちておられます。目には見えなくても、聖霊は洗礼を受けていない皆さんとも、一緒に居られます。みなさんがここにいるということ、それ自体が、見えない神さまの導きです。
それでも、洗礼を受けられるなら、ぜひ受けませんかとお勧めするのは、神さまの約束を確かに自分のものだとするためです。神さまは目に見えませんから、時に私たちは不安になります。でも、洗礼を受けていれば、その事実が、私は何者なのかということを、神さまはいつも一緒にいてくださるということを、思い出させてくれます。私たちは父と子と聖霊の名によって洗礼を受けます。
大丈夫、私は父と子と聖霊の名によって洗礼を受けたんだ。私が洗礼を受けたのは神さまがそうしてくださったんだ、そう信じて安心することが出来るのです。洗礼は自分が偉いから、キリスト教をよく分かっているから受けるのではありません。神さまがいてくれないと生きていけないから受けるのです。私たちは弱い。でも私たちは弱い時こそ強いのです。神さまがいつも一緒にいてくださるのですから。それは私たちを本当の意味で自由にしてくれる、素敵なことだと思います。
今日の聖書箇所の最後のところ、とっても大好きな箇所です。イエスさまが天へ帰られる場面が描かれています。イエスさまはどのような姿で天へと帰られたのでしょうか。それは、手を上げて弟子たちを祝福する姿です。そして、祝福をしながら天へと帰って行かれました。しながら、というのですからその祝福は終わっていません。イエスさまの祝福は、いまでも続いています。
私たち牧師も礼拝の最後に手を上げて皆さんを祝福します。園の子どもに「なんで?」と聞かれました。それはきっと、イエスさまの祝福してくださった姿を模倣しているのです。いまでも、イエスさまは皆さんを祝福している、そのことを見える形で表わそうとしているのです。
また、ルカ福音書の続編、使徒言行録にはイエスさまが天に帰られた直後のことが書かれています。
「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒言行録1章10~11節)
イエスさまがこの地上に再び帰って来られるとき、その時は、天に上られた時と同じ有様、つまり、みんなを祝福する姿で、祝福しながら来てくださる。だから、いつまでも天を見上げていないで、安心して行きなさい。そう言って天使たちは弟子たちを送り出し、弟子たちは喜んで出かけました。
私たちも、イエスさまの祝福に押し出されて、喜びながら世へと出ていきましょう。
