<聖書: 使徒言行録 2章1~11節>
五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」
<説教> 「聖霊の賜物」
今日は花の日・子どもの日です。私たち日本のプロテスタント教会は明治に伝わったアメリカのプロテスタント教会の影響を強く受けており、この花の日・子どもの日も18世紀ごろのアメリカの教会が発祥と言われています。花の咲く綺麗なこの季節に、特に子どもたちを祝福しようと始まったそうです。礼拝堂を花で飾り、礼拝後に子どもたちが病院や消防署などに花を届けたりします。新型コロナウィルス感染症の影響で、花の日の訪問にはしばらく行けていませんが、今年は教会学校の皆さんが病床者の方々のために、花の日のカードを製作してくれています。皆様も子どもたちや病床にいる方々を覚えてお祈りいただけましたら幸いです。
さて、今日は聖霊降臨日・ペンテコステです。神の子イエス・キリストは、すべての人の罪の身代わりとして十字架で死に、復活して弟子たちに姿を顕した後、天に帰られましたが、弟子たちにご自分の代わりに神の霊・聖霊を送るという約束をなさいました。その約束通りに、聖霊が与えられたことを記念する日です。
イエスさまが反対者たちに捕らえられた際、弟子たちは怖くなって、イエスさまを見捨てて逃げ去りました。しかし、復活したイエスさまに出会い、心の目を開かれ、聖霊を受けた弟子たちは、聖霊に押し出されて世へと出ていき、熱心に宣教する人へと変えられていきました。そうして、イエス・キリストの福音、良い知らせが世界中に広がっていきました。だから、ペンテコステは教会の誕生日とも言われます。
その聖霊が降った日の出来事の記事が今日の聖書箇所です。舞台はユダヤ教の祭り、五旬祭の日。
過越しの祭り、仮庵の祭りと合わせて、ユダヤ教の三大祭りの一つです。この祭りは巡礼の祭りで、普段は地中海世界に離散して住んでいたユダヤ人たちが、神殿のあったエルサレムにやってきました。過越しの祭りから数えて50日目にあたり、小麦の収穫を祝う収穫祭でもありました。
ユダヤ人たちにとって、この祭りには他にも大事な意味がありました。それは、モーセを通してユダヤ人たちに神さまからの掟、律法が与えられたことを記念するということです。
私たちキリスト教徒にとって、「律法」と聞くとあまり良い印象はないと思います。「律法主義」のように、形骸化した掟で縛りつけられるという悪い印象の方が強いのではないでしょうか。確かに、イエスさまが活躍された時代の古代ユダヤ教はそうであったようです。しかし、もともと律法とは神さまから与えられたもので、悪いものではありませんでした。律法は私たち人間にどのように生きれば良いのかを示すもので、要点は神さまを愛することと、隣人を自分のように愛することです。
旧約聖書と新約聖書の「約」とは「約束」、それも軽い口約束ではなく、重い約束である「契約」の約です。律法はユダヤ人の祖先、ヘブライ人たちと神さまの契約です。ヘブライ人は神さまの民とされましたが、その条件は神さまとの契約である律法を守ることでした。律法を守り、神さまと隣人を愛することで彼らは祝福を受けたのです。
しかし、ヘブライ人たちは王国を築き、栄える中で、神さまを忘れ、隣人への愛を忘れてしまいました。それゆえヘブライ人たちの王国は滅ぼされてしまった。それが彼らの宗教的な歴史観です。
王国が滅び、エルサレム神殿も破壊されてしまった。遠い異国のバビロンで、どうやって自分たちのアイデンティティを守ればいいのか。神殿祭儀はもう行えない。そこで彼らは律法に立ち帰ります。律法を守ること、それがヘブライ人、ユダヤ人であることを保つ唯一の方法でした。
やがて神さまの憐れみにより、カナンの地、今日のパレスチナに帰ることのできたユダヤ人たちは神殿を再建しましたが、律法も重視しました。しかし、それはやがて形骸化していきます。
律法は神さまと隣人を愛するための手段です。しかし、手段である律法を守るということが目的化してしまった。隣人を自分のように愛するために用いるのが律法だったのに、律法に書かれてあることを守るために隣人を裁くようになってしまったのです。
彼らの考えも分からないではありません。自分たちの同朋が律法を破れば、その罰は自分たちにも降りかかるかもしれない、そう考えたのかもしれません。しかし、そうこうするうちに、愛するという本来の目的から離れてしまった。
そこで本来の目的に立ち帰らせるためにイエス・キリストが来られたのです。律法を守ることによっては、人は救われることはできない。なぜなら私たちには完全に律法を守ることは出来ないから。私たち人間は不完全な存在であり、利己的な罪人であり、神さまを愛し、隣人を自分のように愛することを完全に行うことは出来ない。
そのような私たちを救うために、神さまはイエス・キリストを遣わしてくださいました。イエス・キリストは私たちが受けるはずの罰を身代わりに引き受けて、私たちの罪を赦してくださいました。私たちは自らが清いからでも、正しいからでも、誰かより優れているから赦されたのではありません。ただ、神さまの私たち人間への愛ゆえに赦されたのです。私たちは自らの功績ではなく、神さまの恩赦によって裁きから解放されました。それだけでなく、神さまは私たちに神さまの子どもとして生きる道を与えてくださったのです。
私たちは罪が赦され、裁きから解放されました。それは私たちが恐怖から律法を守ろうとするのではなく、感謝と喜びから、自発的に神さまと隣人を愛そうとするようになるためでした。
しかし、それだけではまだ弱い。私たちは何かあるとすぐ挫けてしまいそうになります。それはイエス・キリストの弟子たちも同じだったでしょう。そのような彼らに、イエスさまは聖霊を送ってくださったのです。イエスさまは目に見えなくなった。でも、聖霊が与えられ、聖霊を通して神さまは、そしてイエスさまはいつも一緒にいてくださる。そして同じ聖霊は私たちにも与えられている、そのことを記念し、思い出そうというのがペンテコステです。
ユダヤ人たちが神さまから律法を与えられたのを祝うように、私たちは神さまから聖霊が与えられたのを祝うのです。キリスト教徒はユダヤ人から祝福を奪ったのでしょうか。そうではありません。
イエス・キリストも12弟子たちもユダヤ人です。彼らを通して、すべての人が祝福されるという神さまとアブラハムの約束が成就したのです。神さまの救いと祝福はユダヤ人だけのものではない、すべての人に向けられています。それは、新約聖書だけでなく、旧約聖書に記されていることなのです。
5旬祭の日に、ユダヤ人は律法を与えられたことを記念し、モーセ五書が朗読されるそうですが、もう一か所読まれる所があります。それはルツ記、ユダヤ人ではない異邦人、ルツが神さまの民となる物語です。
ルツはユダヤ人の伝説的な王、ダビデ王の曾祖母です。ユダヤ人も様々な民族の人が結びついて出来ていった集団です。それは私たちに日本人も同じです。もともと日本には人は住んでおらず、様々な時代に渡ってきた人たち、縄文系の人、弥生系の人、そして大陸からの渡来人など多くのルーツの人が混じり合って、今日の日本があります。それは世界のどこの国々でも同じです。純粋な単一民族というのは幻想にすぎず、人は皆、どこかで同じ共通祖先をもっていると言われます。その生まれで誰かが誰かより特別だなんてことはありません。神さまの前ではみな誰でも同じです。
今日の聖書箇所でイエスさまの弟子たちに聖霊が降ると、弟子たちは話したこともなかったであろう外国語を話し、それぞれの国の言葉で神さまを賛美しました。世界各地から巡礼に来ていた人たちが、それを見聞きして驚き、イエスさまを信じるようになり、その信仰が世界各地に広がっていきました。この物語を読むとき、私たちはその不思議な奇跡に心を奪われるかもしれません。しかし、奇跡よりも大事なのは、ユダヤ人だけでなく、すべての人が神さまの救いが開かれたということです。
それは旧約聖書において神さまが約束しておられたことの成就です。
「その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。」(ヨエル3:1)
すべての人なのですから、そこに分け隔てはありません。聖霊は神さまからの賜物、賜り物、一方的な神さまのご厚意によって与えられたものです。だから、私たちは自分で自分を誇ることはできません。その聖霊はイエスさまを自らの救い主キリストと信じる私たちを力づけ、イエスさまを証しし、互いに愛し合う道へと押し出されます。
大丈夫、イエスさまを裏切り、見捨てた弟子たちですら赦されました。キリスト教徒を迫害していたパウロも赦されました。それは私でも赦されたのだから、あなたが赦されないはずがない、だから安心して愛である神さまのもとに帰りましょう!と呼びかけるためだと思います。
神さまはすべての人を招き、すべての人をご自分の子どもとしてくださる。それは、私たち人間が神さまに感謝しながら、お互いに愛し合って生きるようになるためです。
自分は神さまの民だと言いながら、隣人を愛さず、憎み合い、殺し合うなら、それは神さまを愛してはいません。聖霊も神さまの恵み、祝福も、全ては神さまからの賜物、愛ゆえです。自分だけのものではなく、他者と喜び、分け合うもの。神さまを信じるすべての人が、そのことを思い出しますように。
