<聖書: エフェソの信徒への手紙 1章3~14節>
わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
<説教> 「聖霊の証印」
今日は三位一体主日です。世界を造られた父なる神、すべての人の救い主である子なる神キリスト、今もこの世界で自由に働く聖霊なる神が一つであるということを記念します。この三位一体という言葉は聖書には直接出てきませんが、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさい(マタイ福音書28章19節)と言われるように、古くからその考えは受け入れられてきたようです。
三位一体を説明する仕方は色々と考えられてきましたが、私は5世紀にアイルランドで宣教した聖パトリックの三つ葉のクローバーを使った説明が好きです。近年、ここ札幌でも聖パトリックを祝うセント・パトリックス・デーが開かれているので、ご存じの方も多いかもしれません。この日には緑の物を身に着けるそうですが、それは聖パトリックが三つ葉のクローバーを用いて三位一体を説明したからだと言われています。
イエスさまも「野の花を見なさい」(マタイ福音書6章28節、ルカ福音書12章27節)と言われましたが、神さまがお造りになった自然の中にも、神さまを想わせるものがたくさんあるなと嬉しくなります。
さて、聖パトリックがどのように三つ葉のクローバーを使って三位一体を説明したのか分からないので推測になりますが、きっとこうだったんじゃないかという考えをお話します。
アイルランドの三つ葉のクローバー、シャムロックは葉がハートの形をしています。
「神は愛です」(ヨハネの手紙Ⅰ4章16節)、聖書は私たち人間への神さまからのラブ・レターだと言われることがあります。父なる神も、子なる神も、聖霊なる神も、それぞれ私たちを愛してくださっています。でも、その一つだけでは、全体像は分からない。三つそろって初めて、神さまが分かるんじゃないかなと思うのです。父と子と聖霊なる神は、同じ想いで、私たちを愛し、私たちが神の子として互いに愛し合って生きるように招き、導いておられる、そう考えていただけたらと思います。
さて、今日の聖書の箇所についてお話します。今日の聖書箇所はエフェソの信徒への手紙です。エフェソというのは小アジア、現在のトルコ西部にあった古代の都市です。現在は遺跡のみとなっていますが、昔は地中海貿易の重要な拠点として大いに栄えました。宣教者パウロが三年近く滞在するなど、キリスト教にとっても重要な宣教拠点だったようです。
しかし、古い時代の聖書の写本には「エフェソにいる」(エフェソ1章1節)という言葉がなく、今日では特定の教会に宛てたものではなく、トルコ西部にあったいくつかの信仰共同体で回覧するために書かれたものと考えられています。
今日のところでは、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」と、神さまへの賛美から始まっています。私たちは教会に集まり、神さまを賛美します。
なぜ、私たちは神さまを賛美するのでしょうか。
それは神さまがイエス・キリストを通して私たちを祝福し、私たちを神さまの子としてくださったからです。
キリスト教では、私たちがこうしてキリスト教に繋がっているのは、私たちが選んだようでいて、実は神さまが選び、そのようにしてくださった。神さまの導きなのだと考えます。
そしてすでに神さまはイエス・キリストの十字架での犠牲を通して私たちを祝福で満たし、私たち人間が誰でも持っている罪を赦してくださった。私たちは赦されるために、救われるために神さまを賛美し、神さま礼拝するのではありません。私たちはすでに、イエス・キリストによって罪が赦され、神さまの民、神さまの子とされたから、神さまを賛美するのです。
私たちプロテスタントのキリスト教信仰は福音主義だと言われます。福音とは神の子イエス・キリストによってもたらされた良き知らせ、救いと罪の赦しの宣告のこと。もう大丈夫、私たちの罪は赦された、私たちは救われた。だから感謝して、神さまを愛し、隣人を自分のように愛し、私たちの主イエス・キリストが命じられたように互いに愛し合って生きよう、そういうのです。
信じなければ滅びる!と脅すのではなく、救われたことを信じよう、そして互いに愛し合って生きよう、お互いに大切にし合って生きよう、というのです。
キリスト教では、私たち人間はどんな人も罪がある罪人だと考えます。そのキリスト教でいう罪とは、私たち人間がだれでも持っている自己中心的な性質、生き方のことを指します。そこからは誰も自分の力で逃れることは出来ません。私も以前、自分の力で清い正しい人間にならなくてはいけないのだと勘違いしていました。でもそんなことは一生かかっても出来ません。もし自分の力だけで神さまに正しい人間だと認められて救われるのなら、イエス・キリストは必要なくなってしまいます。
残念ながら、そして嬉しいことに、私にはそのような力はありません。それでいいのです。自分の力だけでなんとかしようとしなくていい。私たちにはキリストがおられる。
もしも、自分で自分を救うことができるのなら、私は自分で自分を誇り、自分で自分を救うことができない人を見下してしまうことでしょう。でも、誰かを見下している時点で、私は正しい人などではありません。誰も自分を誇り、誰かを見下したりしないでいいように、神さまは私たちを先に赦してくださっているのです。
私たち人間は誰かの上に立ちたがります。誰かを下に見なくても、十分にその存在は尊いのに、誰かを下に見なくては気が済まない。それはきっと、不安だからなのかなと思います。偉そうに言っている、自分にもそういう時がありました。自分に自信がないから、不安だから、誰かを傷つけてしまう。でも、そんなことする必要はない。どんな人だって、神さまに愛されているのだから。
神さまの救いは、一方的に私たちに注がれる恵みです。太陽の光のように、雨のように、分け隔てなく私たちに注がれています。それはすべての人、あらゆるものが、私たちの頭であるイエス・キリストのもとに一つにまとめられるためです。誰の上にも、誰の下にも立たず、ただキリストの下に同じ神の子として集まるのです。それはなんて気楽で、嬉しいことでしょう。
神さまは私たちをイエス・キリストによって祝福し、罪を赦し、神の子としてくださった。そのことを一緒に感謝して、一緒に喜び、一緒に神さまを賛美する、それが礼拝です。
もちろん、神さまは私たち人間の目には見えませんから、それが本当かどうかと不安になることもあるでしょう。そのような私たちにこの手紙の著者パウロは、私たちが聖霊を受けたことを思い起こさせます。
私たちもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。
私たちはどうして目に見えない神さまを信じ、目には見えない神の子イエスを自分の救い主だと信じることができるのでしょうか。それは目には見えない神さま、聖霊が働いてくださっているからだと聖書は言います。自分の力や知恵で信じたのではなく、神さまが信じさせてくださったのです。
聖霊によって信じさせてもらったとき、私たちは聖霊で証印を押されました。あなたは確かに神さまのもの、神の子ですよというスタンプが、目には見えないけれど確かに押されていると聖書は言うのです。
信じた皆さん。あなたは神さまのもの、大切な神さまの子どもです。
信じられていないけれど、ここに集ってくださった皆さん。あなたが礼拝に参加されたのも、神さまの導きです。あなたも大切な神さまの子どもです。神さまは信じるようになるためのふさわしい時を用意しておられると信じています。
まだ神さまに出会っておらず、神さまを知らない皆さん。あなたも大切な神さまの子どもです。どのような形でかは分かりませんが、神さまはその人たちのことも必ず招いてくださると信じています。
たとえ信じるタイミングを逃したなと思っていても大丈夫。神さまは何度でも何度でも招き、相応しい時と場を備えてくださいます。
私たちは神さまに招かれた神さまの子ども。神さまは私たちを愛し、赦し、祝福してくださっている。そのことに感謝しながら、今週も互いに愛し合って生きていけますように。
