信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。
使徒たちは、大いなる力をもって主イエスの復活を証しし、皆、人々から非常に好意を持たれていた。
信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。
土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。
たとえば、レビ族の人で、使徒たちからバルナバ――「慰めの子」という意味――と呼ばれていた、キプロス島生まれのヨセフも、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。
<説教> 「分け合うこと」
今日は「部落解放祈りの日」です。私たちの教会が属する日本キリスト教団では7月の第2主日を、部落差別解消を祈る日としています。北海道や東北、沖縄などでは部落差別はほとんどないそうですから、聞いたこともないという方もおられると思います。部落と聞くと、単に村や集落という意味だと思う人も多いでしょう。この差別は主に関東から西に多いようです。私も関西出身ですが、関西では必ず人権教育で部落差別について学ぶ時間があります、
部落差別、その由来は諸説ありますが、日本の歴史形成の中で、時の政治や宗教、身分制度などによって差別が制度化、固定化され、住む場所、職業、結婚など多くのことが制限され、差別を受けて苦しんできた人々がいました。
今日では身分制度は無くなり、差別がいけないことであるというのは常識となりました。日本国憲法ではすべての人は平等であるととうたわれ、差別を禁止しています。それにも関わらず、残念ながら、今日でも部落差別によって結婚や就職、教育などで不利益を被り、また狭山事件のように偏見の目で見られ、冤罪によって犯人とされた人々がいます。私たちが住む北海道では、部落差別はないかもしれません。しかし、先住民族であるアイヌの人々への差別や、外国人たちへの差別、障がいがある方への差別など、違う形の差別があります。
差別はすべての人を傷つけます。差別される人も、差別する人も、誰も幸せにはなれません。また、差別は人を苦しめ、悲しめ、最悪の場合、死に追いやります。関東大震災の時には差別によって多くの在日外国人や、被差別部落の人たちなどが虐殺されました。過去を知り、こうした悲劇を繰り返さないようにしたいものです。
今日、この部落差別解決を求めて祈る日に、すべての差別が無くなるように、すべての人が、内なる差別心と憎しみから解放されるよう、ご一緒に祈っていただけたらと思います。
神さまは愛の方であり、神さまは人を分け隔てなさいません。神さまはすべての人を造り、すべての人を主イエス・キリストを通して愛しておられます。そして、イエスさまを自分の救い主と信じる私たちにも、互いに愛し合うようにと命じておられます。イエスさまの弟子であり、イエスさまに従う者である私たちは、差別を肯定することは出来ません。
残念ながら、差別心は誰にでもあるものだと思います。心に思ってしまうのは仕方ない。でも、それを悪いことだと認識して、自分で悪い行動に移さないようにすることは出来る。また、差別に加担しないこともできます。そのように、私たち一人ひとりが、身近なところで差別を肯定しない、差別に加担しないということが、より良い世界、互いに愛し合う神の国へと繋がっていくのだろうと思います。この世の悪い価値観ではなく、愛を中心とした、神さまを中心とした価値観に、私たちが従って行くことができますように。
さて、今日お読みいただいた聖書箇所は、イエス・キリストの弟子たちに聖霊が降った、聖霊降臨の後の教会の様子が描かれています。
イエス・キリストの受難を前に、イエスさまを見捨てて逃げ出してしまった弟子たち。しかし、復活したイエスさまは彼らを赦し、神さまからの良き知らせを告げるメッセンジャー、使徒として世界へと派遣しました。
その期待に応え、また神さまから頂いた聖霊に励まされて、使徒たちは大胆に語り、エルサレムを中心に、イエスさまを救い主キリストと信じる人々の群れが出来ていきました。その初期の教会の様子です。
今日の箇所は使徒言行録2章43~47節の記事とよく似ています。そこでも、信徒たちが必要なものを分け合って生活していた様子が描かれています。使徒たちの説教を聞いた人々は生活の中で、神さまに応答する生き方をしようと望んだのでした。
これは申命記15章4節の預言の成就のようです。そこではこう語られています。「あなたの神、主は、あなたに嗣業として与える土地において、必ずあなたを祝福されるから、貧しい者はいなくなる」。それは神さまが奇跡的なことをされるから、私たちは何もしないでいいということが言われているのではありません。続く11節でこう語られています。「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。」
神さまが私たちを用い、互いに神さまから与えられているものを分かち合うことで、貧しい人はいなくなると言われているのです。今日の聖書箇所で出てくる信徒たちはまさにこのことをしたのでした。
一つ注意したいのは、バルナバが畑を売ったことが例として書かれていますが、教会員すべてにこのことが求められていたわけではありません。あくまでも、個々人の判断に委ねられていました。使徒言行録5章ではアナニアとサフィラという夫婦が、バルナバに対抗して見栄を張ったのでしょうか、嘘をつき、罰せられるという場面が描かれていますが、その時、教会の指導者であったペトロは「売らないでおけば、あなたのものだったし、また、売っても、その代金は自分の思いどおりになった」と言っていますから、強制的に、皆が財産を売って分け合うことを求められていたのではなく、各自が自由意思によって、神さまへの応答として行っていたことが分かります。
分け合うこと、これはイエス・キリストの教えの実践でもあります。主は言われました。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13章34~35節)
教会の人々の、分かちあう合う姿は、それだけで信仰者としての証しとなったことでしょう。
分け合いなさいとの主の教え。しかし、これがなかなか難しいことも私たちは経験上知っています。これは自然とできることではないのではないのではないかとも思います。たとえば、こども園でも小さな子どもはおもちゃなどでも友だちと分け合うことが難しい様子が良く見られます。
独占したいという欲求は私たちがもともと持っているものなのかもしれません。しかし、園で保育者やお友だちと関りながら過ごす経験を通して、だんだんとお友だちに貸したり、待ったり、分かち合うことができるようになって行きます。それは、分けても大丈夫、無くならないし、そっちの方が気分がいいよ、といったことを知り、保育者やお友だちと信頼関係ができていくからこそだと思います。
私たちが必要なものを、他者と分け合うということも、神さまへの信頼があるからこそ、できることなのではないでしょうか。
自分だけで自分の人生をコントロールしなければいけないとすれば、他者を信じることも出来ず、分かち合うということも難しいでしょう。しかし、私たちには、私たちを愛しておられる神さまがついています。
神さまは私たちに平和の計画を備えて下さっていると聖書は語っています。主の山に備えありとも言いますし、「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。 月日がたってから、それを見いだすだろう」(コヘレト11章1節)とも言われています。いろいろな物語や聖句を通して、聖書は私たちに神さまを信頼し、神さまに従う道を教えています。
私たちが他者と分かち合うことを惜しむとき、主イエス・キリストが私たちを愛して、惜しみなくご自分を与えてくださったことを思い出したいと思います。大丈夫、神さまは悪いようにはなさらない。神さまを信頼して、私たちも愛し合う道を選び取っていくことができますように。
