2025年7月6日 聖霊降臨節第5主日 コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章1~15節

兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたしたちに願い出たのでした。また、わたしたちの期待以上に、彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を献げたので、わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めました。あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。

わたしは命令としてこう言っているのではありません。他の人々の熱心に照らしてあなたがたの愛の純粋さを確かめようとして言うのです。あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。この件についてわたしの意見を述べておきます。それがあなたがたの益になるからです。あなたがたは、このことを去年から他に先がけて実行したばかりでなく、実行したいと願ってもいました。だから、今それをやり遂げなさい。進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。 他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。

「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」

と書いてあるとおりです。

目次

<説教> 「釣り合いがとれる」

聖霊降臨節に入っています。聖霊降臨からアドヴェントまでの期間で、「教会の半年」とも呼ばれ、主に使徒たちの働きや手紙から聖書を読み、私たちの信仰共同体である教会について学んでいきます。

今日は異邦人への使徒パウロから、ギリシャのコリントにあった教会の人々に向けて書かれた手紙です。コリント教会はパウロたちの宣教によって出来ましたが、彼が宣教に出かけている間にやってきた、偽の教師たちによって惑わされ、パウロから離れる人たちもでてきました。そこで、パウロは手紙を何度も書き送り、テトスら同労者たちのとりなしもあって、ついには和解したようです。

今日の手紙では、和解したコリント教会の人々に、エルサレム教会の人々への献金についての励ましをしています。

この当時、イエス・キリストの主だった弟子たちはエルサレムを中心に宣教し、イエスさまの直弟子たちが指導するエルサレム教会は、当時の諸教会の中でも、特に権威のある教会でした。しかし、エルサレム教会に集う人たちは、他の地域の人々と比べて貧しく、その上、その地方を襲った酷い飢饉により打撃を受けていました(使徒11章27~30節)。

その事を知った、シリアのアンティオキア教会はエルサレム教会の人々を支援することを決め、他の地域の教会もそれに続いたようです。アンティオキア教会は異邦人伝道のさきがけとなった教会でした。パウロもバルナバという信仰者の先輩を通して、アンティオキア教会に招かれ、異邦人伝道へと派遣されていったのです。

パウロが異邦人伝道を認められた時、「貧しい人たちのことを忘れないように」と、エルサレム教会の指導者であった人々から言われていました。ですからパウロは、異邦人伝道と共に、エルサレム教会の貧しい人々を支援することも心がけていました(ガラテヤ2章10節)。このことは、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の一致を示す、良い機会でもありました。

残念ながら当時のユダヤ人キリスト者の中には、異邦人キリスト者を差別する人がいました。

しかし、パウロは言っています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3章26~28節)

イエス・キリストにあっては、すべての人の間に差別はあってはならないというのがパウロの信念であり、主であるイエスさまから示されたことでした。

イエスさまはこう言っています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ福音書13章34~35節)

パウロは異邦人キリスト者たちの教会が、ユダヤ人キリスト者の教会であるエルサレム教会を助けることで、互いに愛しあうことを実践し、主の弟子であることを示して、偏見に囚われていたユダヤ人キリスト者たちの目を覚まさせようとしました。

そうしたパウロの働きに共感し、コリント教会でも、この手紙の書かれた前年に募金が開始されていましたが、その後、パウロと疎遠になったために中断していました。和解したいま、パウロはコリント教会の人々に、自分たちが始めたことを完成させなさいと勧めています。

パウロはコリントの人々にマケドニアの教会の人々の惜しみない心を示しました。彼らは、コリントの人々よりも貧しく、また迫害にも苦しんでいましたが、喜んで、エルサレム教会の人々を助けるのための慈善や奉仕、募金に応じました。

これは神さまの恵みなのだとパウロは言っています。神は惜しみない愛の方であり、私たちすべての人を救うために、神の子イエス・キリストを身代わりにしてくださいました。またキリストは神と同じ身分であったのに、私たちを救うために、私たちと同じ人間としてこの世に生まれ、私たちの苦しみを担い、私たちを罪から解放してくださいました。

このことは私たち自身の功績ではなく、神さまの私たち人間への一方的な恵みによるものでした。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10章8節)と言われているように、神さまの恵みを受けた私たちは、その恵みを他者へと受け渡していきます。

私たちも自分たちの教会の維持のためだけでなく、他の教会や困っている方々を覚えて献金しています。これは最初期から教会が大事にしてきたことです。聖書の使徒たちの働きに、今日の私たちも参加しているのです。

もちろん、慈善や施しや募金といった良い行いは、私たち信仰者の神さまへの個人的な応答・献身によるもので、強制されるべきものではないとパウロは言っています。

「進んで実行しようと思ったとおりに、自分が持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持があれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」

持っていないものまで与えよと言われているのではありません。私たちはすでに神さまに色々と与えられています。神さまが私たちそれぞれに与えてくださっている恵みに応じて与えなさいと言われているのです。

パウロはコリントの人々に対して、マケドニアの人々の例を示しました。それはマケドニアの人々が、コリントの人々に比べて貧しく、かつ迫害を受けているという困難な状況の中でも、主の弟子として、他者を忘れていないことを示し、コリントの人々を奮い立たせるためでした。

パウロは『 他の人々には楽をさせて、あなたがたに苦労をかけるということではなく、釣り合いがとれるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです』と言っています。

日本でも「情けは人の為ならず」ということわざがありますね。ご存じの通り、他者に情けをかけることは、回りまわって自分のためになるのだという意味です。人生、だれしも調子の良い時もあれば調子の悪い時もありますよね。自己責任、自分だけ良ければそれでいいというのではなく、「お互いさま」の精神で、誰もが助けてもらいやすい世の中になれば、自分や家族も友人も、調子の悪いところに落ち込んだときにも助けてもらえるでしょう。今日のセーフティネットと同じような考えを、神さまは約2,000年も前に、パウロを通して私たちに教えています。

今日、残念なことに、世界やこの日本でも「〇〇ファースト」という偏狭で差別的な考えが幅を利かせ始めていますが、キリスト者にあってはそうであってはならないのだと強く思わされます。

「多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった」

これは旧約聖書の出エジプト記から、神さまがヘブライ人たちに荒野でマナという食べ物で養ってくださった物語からの引用です(出エジプト記16章18節)。

神さまはヘブライ人にその日必要なものを、必要な分だけ与えてくださいました。

そして同じように、私たちのことも養ってくださっています。

日用の糧を与えてくださる神さまを信頼し、私たちも主の恵みを互いに喜んで分かち合うことができますように。

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