キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。 そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。 死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。 そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。 この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。
しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。
つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。
<説教> 「キリストによって」
今日は召天者記念礼拝です。皆とご一緒に礼拝を捧げられる幸いを主に感謝いたします。
先に神さまの御許へと信仰の友たちを偲び、主よりの慰めと励まし、平安がありますように。
今日の聖書箇所は、異邦人への使徒パウロが、ギリシャのコリントという都市にあった教会の人々に宛てた手紙です。コリントは交通の要所で、たくさんの交易船が行き来する場所として栄えた大都市でした。コリントの教会はパウロらの宣教によってできた信仰共同体でしたが、後に異なった教えを説く教師らが入り込み、教会の中で分派争いが起きてしまいました。そうした混乱を納めようとパウロは何度か手紙を書き送ります。
今日の所を含む15章では、キリスト教信仰の中心、復活について語られています。
ですから、召天者記念礼拝に読むにふさわしい個所と言えるでしょう。
今日の少し前の所で、パウロは自分たちが伝えた福音、神さまからの良き知らせについて再確認させています。それは、イエス・キリストが、旧約聖書に書いてあるとおり私たちすべての人の罪のために身代わりとして死んだこと、確かに死んで葬られたこと、それだけでなく、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、そしてその後、たくさんの弟子たちの前に姿を顕したこと。
これはキリスト教信仰の中心です。
キリスト教では、私たち人間は不完全な存在であり、神さまの前には完全ではありえず、どんな人にも罪があると考えます。この罪とは、聖書の書かれたギリシャ語ではハマルティアといい、的を外すことを意味します。聖書では神は愛であると言われていますが、その愛である神さまの方を向いて生きるのではなく、神さまから離れて、自分勝手に、自己中心的に生きてしまうことを罪と呼んでいます。そのように考えるなら、罪のない人なんて誰もいません。
聖書は私たち人間が死ぬ存在になった理由の物語として、アダムが神さまに背いたことを挙げています。アダムはすべての人間のもととなったとされている人です。神さまはアダムをお造りになり、エデンの園に住まわせます。そして、その園にあるどのような木の実を取ってたべてもいいけれど、善悪の知識の木の実は食べてはならない、食べると死んでしまうからと言われました。
しかし、蛇にそそのかされ、アダムは神さまの言いつけに背いて善悪の知識の実を食べてしまい、エデンの園から追放されてしまったという有名なお話です。
善悪の知識を得る、これだけ聞くといいことのように思いますが、蛇の言葉をよく読むと問題が見えてきます。蛇は、それを食べると「神のように善悪を知るものとなる」と言ったのです。
神さまに造られたに過ぎない存在が、神さまのようになろうとしたそれがアダムの背きなのです。
アダム、つまり人は「神さまのように」なろうとして、自分勝手に、自分の都合のいいように善と悪を判断する存在になった、そのことをこの神話は教えているのです。
本当に神さまと同じように善悪を判断できるならいいけれども、神さまではない人間にはそれは無な話でした。そして、お互いに愛し合うようにと望んでおられる神さまに反して、互いに裁き合い、互いを敵として攻撃し合う、そのような存在となってしまった。
愛であり、命の与え主である神さまから離れてしまった人間は死ぬ存在となってしまった。死から逃れられる人は誰もいません。どれだけこの地上で権勢を誇り、富を誇り、武力を誇っても、いつか必ず死はやってきます。
それは私たち人間の神さまへの背きへの罰なのだとパウロは言います。神さまは正しい方であり、
裁きを下さなければならない。そうでなければ神さまは正しい方だとは言えなくなってしまいます。神さまの裁きから逃れられるだけの正しさを持つ人は一人もいない。私たちは自分で自分を救うことは出来ません。
しかし、神さまは正しいだけでなく、憐み深い方でもあります。神さまは人間が背いた後も、ご自分がお造りなった人間たちを愛し、私たちを救うために神の子イエス・キリストをこの世へと遣わしてくださった。
そしてイエス・キリストは、私たち人間が負うべき罰をすべてご自分が身代わりとして引き受けて十字架によって死んでくださった。そして三日目に復活することによって永遠の命があることを教えてくださいました。
なるほど、神の子ならば死んでも復活することもあるだろう。でもそれが神さまではない、私たちただの人間となんの関りがあるのだろうか。
イエス・キリストはすべての人の罪のために、身代わりとして死なれたということは、私たちに下さるはずの罰はすでに執行済みだということです。私たちはいわば、神さまの愛、イエス・キリストの恵みによって恩赦された、罪を赦された罪人なのです。罪にとらわれた罪の奴隷、罪に所有された者でしたが、いまや罪から解放されて神の子イエス・キリストの所有されている存在となった、そのようにパウロは説明しています。
また、キリストの復活は、人々の初穂になるためだったとパウロは言います。初穂とは最初の収穫物のこと。後には同じように続々と収穫が続きます。復活はイエス・キリストで終わるのではなく、イエス・キリストのものとなったすべての人が、キリストによって、キリストと同じように復活させられる。それが、私たちキリスト者の信仰です。
キリスト者とはキリストを信じる者のこと。どのように信じるのか、それは自分がイエス・キリストのものとなったと信じるのです。私たちの主人は他ならぬ神の子イエス・キリストお一人。愛の主であり、命の与え主であるイエス・キリストを信頼し、自分勝手な善悪の判断ではなく、互いに愛し合いなさいと言われるイエスさまのみ言葉に従って生きて行こうとするのです。
イエス・キリストは「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章20節)と言われました。そして、世の終わりの時にはこの世に帰ってくると言っておられます。だから、イエス・キリストが私たちと一緒にいない時は一時もありません。
過去の罪、過ちはすべてイエス・キリストによって神さまが赦してくださった。将来、死後のことも神さまが良いようにしてくださる。過去も未来も大丈夫、だから今、一緒にいてくださるイエス・キリストに従って生きて行こう。
私たちの信仰の先達、信仰の友、信仰の家族のみなさんも、そのような信仰を抱き、聖書から希望をいただきながら、神さまに与えられたそれぞれの人生を歩み通されました。そして今は神さまのもとで安らかに憩っておられ、世の終わりの時の復活を待っておられる、そのように信じます。
そしていつか私たちも、それぞれの生涯を終えたとき、また、神さまのもとで再会できる、そのような希望を持っています。ですから、再会した時に、笑顔で会えるよう、今を精一杯生きたいなと思うのです。
さて、ここにはキリスト者ではない方もおられると思います。また、教会で葬儀をした方や、教会墓地に埋葬されている方の中にはキリスト者ではない方もおられます。その方々はどうなるのかと考えておられる方もおられると思います。
今日の聖書箇所で、
「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになる」とパウロは言っています。
「すべての人」なのですから、キリスト者ではない方も含まれるのではないでしょうか。
また、聖書には、終わりの日には善人も悪人もみな復活させられ、神さまの裁きの前に立たされるとも教えています。その裁きの座に座られる裁判官は憐み深い主イエス・キリストです。
イエス・キリストは私たちの裁判官であると同時に、弁護者でもあります。たとえ神さまを知らないままに亡くなられた方であっても、そのことを理由に裁くような方ではありません。
キリストは十字架によって殺され、死んだ者が誰でも行くという陰府に下られました。陰府は神さまから遠い、神さまに見捨てられたところと考える人もいますが、しかし、そのような所にも神の子イエスさまは来てくださった。そして、イエス・キリストによって陰府は解放されたのです。
だから、亡くなった方のことを心配する必要はありません。大丈夫、憐み深い神さまは必ず良いようにしてくださいます。
キリスト者になることは、それと引き換えに天国への切符を得ることではありません。そうではなく、神さまがイエス・キリストによって私たちを赦してくださったことに気が付き、私たちも神さまの子どもとして、お兄ちゃんであるイエス・キリストに従って、互いに愛し合いながら、生きて行こうとすることなのです。
私たちは死も裁きも恐れる必要はありません。天での再会を期待しつつ、恐れからではなく、喜びから、イエスさまに従って、一緒に歩んでいきましょう。
