「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。 それで、受け取ると、主人に不平を言った。 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。 14自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
<説教>「 ぶどう園の労働者のたとえ 」
今日は神学校日、伝道献身者奨励日です。伝道者になることを志した人たちや神学校を覚えて、祈りと献金でお支えしようという時です。同志社大学神学部と神学研究科、そこで学ぶ学生たちを支えるため、全国同信伝道会を通して寄付するべく、献金箱を受付に用意しましたので、宜しければご協力ください。
さて、今日はイエスさまの語られた、天の国のたとえです。天の国、神さまの支配しておられる国はこのようなものだと教えてくださっています。
ある家の主人が、朝早く、自分のぶどう園で収穫するために、日雇い労働者を雇いに町へと出かけます。電気もなく、労働基準法もない時代のこと、人々は夜明けから日没まで働いたようです。おそらく朝の6時から夕方6時までの12時間労働だったのでしょう。この主人は朝6時に町の広場へ行きました。そこには仕事を求める大勢の人たちが集まっていました。
今日の私たちからすると想像しにくいかもしれませんが、当時の人々の多くは、土地を耕したり、家畜を飼ったりして自分で食料を得て生活していました。しかし、貧富の差が大きくなり、戦争や借金のかたに土地を奪われ、日毎の糧を得るために、日雇い労働者として生きる道しかなくなった人が大勢いたのです。そうした人々の中から、主人は幾人かを選び、一日、1デナリオンで働くという約束をして、彼らを自分のぶどう園へと送りました。1デナリオンというのは当時の平均的な労働者の日給でした。
広場にはたくさんの人がいたはずで、一度に必要な人数は揃ったはずです。けれども不思議なことに、この主人は9時にも町の広場へと出かけます。そして何もせずに立っている人を見かけると「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言って彼らをぶどう園へと送ります。そして12時と3時ごろにも町の広場に行って同じように人々を雇い、ぶどう園へと送りました。
それで終わりではありません。なんと、主人は日の暮れ始めた夕方の5時にも広場に出かけます。そして、ほかの人々が立っていたので、「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか」と尋ねると、 彼らは、「だれも雇ってくれないのです」と言いました。そこで主人は彼らに、「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言って、彼らもぶどう園へと送り出しました。仕事の終わる日没まではあと少し、もう一時間しかありません。
朝の6時を過ぎても、何もせずに広場にいた人々というのは、仕事をしたくても雇ってもらえなかった人たちだったのでしょう。以前、ある人から、昔の日本の日雇い労働について聞いたことがあります。朝早くに仕事を求める人々が集まり、そこで仕事の手配をする人が君と君と君…というふうに、仕事に必要な人員を選びます。そこで選ばれればトラックに乗って現場へ行き、仕事ができるけれども、選ばれなければもうその日は仕事がないのです。何もすることがないので、そこで時間をつぶすしかない。この主人に後から雇われた人たちも、きっとそのような人たちだったのだと思います。また、肉体労働に耐えるような体格のいい人ではなかったり、病気や障がいがあったり、戦禍から逃れてきた外国人だったり…、そんな理由で選ばれなかったのかもしれません。けれども、この主人は、そのような人たちをも選んで仕事を与え、自分のぶどう園に送りました。
さて、夕方になりました。ぶどう園の主人は、畑の監督を呼び、「労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい」と言いました。仕事の終わる夕方に、その日働いた分の賃金を支払うのは、申命記24章15節、レビ記19章13節の規定によります。彼らはそれ以外に生活の糧を得る余裕がないのだから後回しにしてはならないという、神さまの配慮です。私たちは「主の祈り」で「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈りますが、私たちの神さまは私たちに必要なものをご存じで、必要が満たされるように、使用者に配慮するようにと命じておられます。
そこで、最後に雇われた、5時ごろに雇われた人たちから、1デナリオンずつ受け取りました。
その様子の見た最初に雇われた人たちは思いました。「最後に来た、1時間しか働かなかった奴らに1デナリオンの賃金を支払うなんて、なんて気前のいい主人だ。これなら、朝一番から働いた俺たちにはもっとくれるに違いない」
しかし、彼らに支払われたのも1デナリオンずつでした。そこで、彼らは主人に不平を言い始めます。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。不公平だ!」
主人はその一人に答えます。「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。」
たしかに、この主人は最初に雇われた人たちと一日1デナリオンの約束をしたのですから、なにも不正なことはしていません。彼らは、約束通り働いて、約束通りのものを受け取ったのです。これは彼らの必要を満たすのに十分で正当な額でした。だから、この主人は何も不正はしていません。
彼はただただ、気前がよく、他の人なら雇わない、見向きもしなかった人々にも同じように、生きて行くのに必要な金額を支払ってあげただけでした。
なるほど、そうかもしれない。けれども、なにか釈然としないなと感じる方もおられると思います。いや、そう思う人の方が多いのではないでしょうか。一生懸命に働いた人と、ちょっとしか働かなかった人が同じ報酬なら、一生懸命に働くのが馬鹿々々しくなるなと思うと思います。
これは、現代に生きる私たちだからそう思うのではなく、二千年前にイエスさまからこのたとえ話を聞いた人たちも同じだったと思います。しかし、私たちの常識、価値観を揺さぶられるような話だからこそ、当たり前ではない話だからこそ、イエスさまはこのたとえ話を語られたのです。
このたとえ話は、天の国のたとえです。イエスさまがこのたとえを語られた時、ユダヤ教では因果応報的な思想に強く縛られていたようです。ユダヤ人として、神の掟、律法を守れるものは神の民として神の国に入れるけれども、律法を守れないものは罪人として神の国には入れない。これはどの宗教や社会にもよく見られる考えだと思います。キリスト教でも、時々そのような言説を見聞きします。しかし、イエスさまは、そうではないのだとこのたとえを通して教えてくださっています。
このたとえは天の国、神さまの支配される国のたとえです。ですから、このぶどう園の主人は神さま、最初に雇われた人たちは律法を守るユダヤ人たち、最後に雇われたのは、律法を守れないなどの理由で罪人として社会からのけ者にされた人たちや、外国人たち、そしてイエス・キリストを通して神さまを信じるようになった私たちです。
天の父である神さまは「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ福音書5章45節)とイエスさまは言われましたが、神さまは寛大なお方であり、憐み深く、初めのものも、後のものも、みんな等しく恵みをくださる気前のいいお方です。
また、このことは、神さまの救いは私たちの功績によるのではく、神さまの憐れみによるのだということを教えてくれています。私たちは先か後か、勝ちか負けか、多いか少ないか、と競い争いますけれども、天の国の価値観は、私たちの住むこの世の価値観とは違うのです。競ったり、比べたりすることに、勝つということに価値を置かないのが天の国のようです。天の国では「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」のです。
主人である神さまはみんな等しく愛してくださるお方です。たしかに、最初に雇われた人は暑い中、頑張って働きました。しかし、広場にいた人たちは、暑い中、誰にも必要とされない無力感に打ちひしがれていたことでしょう。そして、この主人も、暑い中、一日中、こまめに広場を見に行き、困っている人がいるたびに世話をし、最後には皆に同じだけの恵みをくださるのです。視点を変えてみれば、みんなそれぞれに頑張っていたのです。
私たちはついつい人と比べます。でも神さまの前ではそんなことは意味のないことです。どんな人でも同じように愛されているのに、比べるから、苦しくなる、嫉妬し、神さまを逆恨みしてしまう。
自分は一番最初に雇われた側だ、他の人より頑張っているんだと思えば、なんで神さまは自分を評価してくれないんだと苦しくなります。でも、神さまは不当なことはしていません。みんな同じように愛してくださっています。
大丈夫、私たち一人一人は十分、神さまに愛されています。
他の人と比べるのをやめて、視点を変えて、自分たちが一番最後に雇われた側だと思えばどうでしょう。神さまの恵みを、より感じられるのではないでしょうか。また、たとえ自分が一番初めに雇われた側だったとしても、いつか病気や何かで満足に働けなくなったとき、神さまはそんな自分のことも心配して、きっとこまめに気にかけてくださることでしょう。
どんな人をも救おうとされる神さまに感謝し、みんなで喜び合えたらなと思います。
