イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。
世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。
<説教> 「イエス・キリストを知ること」
イエス・キリストはすべての人の身代わりとして十字架で死に、三日目に復活した後に弟子たちの前に現れ、そして天へと帰って行かれました。今日の聖書箇所はご自分が天へ帰るときが近いことを知ったイエスさまが、後に残る弟子たちのために祈ってくださったところです。
ヨハネによる福音著は使われている言葉が詩的・抽象的で、それが魅力的でもあるのですが、分かりづらいところでもあります。この福音書の著者であるヨハネは、新約聖書のヨハネの手紙やヨハネ黙示録と同じ人で、古代教会の指導者の一人と考えられているのですが、この人にはこんな逸話があるそうです。
このヨハネさんは晩年、年をとって同じ事、「子たちよ、互いに愛し合いなさい」ということばかりを教えていたそうです。そこで弟子たちが不満に思い、「先生、もっと他のことも教えてください」と言ったそうです。するとヨハネさんは、「互いに愛しあいなさい、これが主の戒めであり、これだけ守れれば十分だからです」と言ったそうです。
「互いに愛し合いなさい」これはイエス・キリストの教えの核心です。「神は愛」だからです。神さまの子イエスさまは口だけでなく、十字架の上ですべての人の身代わりとなるという行動をもって、神さまの私たち人間への愛を証ししてくださいました。そして、「私が愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と招いておられます。
私たちが互いに愛し合うこと、これがキリスト教の核心。なるほど、でも難しいなと思いますよね。
自分自身を振り返っても自分が他者を愛せているかというと自信がないですし、世界を見ても、悲しいことがたくさんある…。
でもだからこそ、神さまは互いに愛し合いなさいと言っておられるのです。私たちが簡単に出来ているのであれば、神さまはわざわざ「互いに愛し合いなさい」なんて言う必要がありません。私たち人間が最も苦手としていて、同時にもっとも私たち人間に必要なことが「互いに愛し合う」という事なのだと思います。
では、どうしたら私たちは「互いに愛し合う」ことができるのでしょうか。それはイエス・キリストを知ることが鍵なのだと思います。聖書にはよく「知る」という言葉が出てきます。でもこれは単に知識として知るというだけの意味ではありません。イエス・キリストと親しい、人格的な繋がりを持つという事です。それはイエスさまが自分のために死んでくださった、自分はイエスさまによって生かされているのだということを受け入れることです。
新約聖書には4つの福音書があり、「天の国」、「神の国」、「永遠の命」という言葉がほぼ同じ意味で使われています。そこに入るにはどうしたらよいのか、それを得るにはどうしたらいいのか。
今日の箇所でイエスさまは、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と言っておられます。
この世界を造り、私たちに命を与えてくださった唯一真の神さまと、その神さまがお遣わしになったイエスさまと親しい関係を結ぶこと。それが永遠の命、神の国、天の国に入ることだというのです。その永遠の命とは、死後にあるのではなく、今ここから、イエス・キリストを知ることから始まっているのです。
神さまはすべての存在を在らしめる愛なるお方であり、命そのものです。そのお方から離れては私たちは生きてはいけません。キリスト教で言う罪とは愛である神さまから離れて、自分勝手に、まるで自分自身が神さまにでもなったかのようにふるまうことを指しています。その先には滅びしかありません。
旧約聖書では神さまからの掟、律法を守ることによって滅びから逃れようとしました。でも、いつしか細かい掟にばかり目が行ってしまい、なぜそれを守るのかを忘れてしまった。神さまは私たちを愛しておられ、私たちが何とか滅びないないように神さまの子であるイエスさまをこの世へと遣わしてくださいました。イエスさまは、互いに愛しあうこと、それこそが神さまの掟の核心であることを想い出させてくださったのです。
滅びたくないという恐怖によって細かい掟を守るのではなく、イエス・キリストを通して神さまが私たちを愛してくださっているのだという安心と感謝から、私たちが自発的に互いに愛し合うようになる動機を与えてくださったのです。
イエスさまは私たちのために死に、私たちのために復活し、私たちといつも一緒にいてくださっている。自分自身には愛がなく、他者を愛することも、他者に自分を誇ることも出来ないような存在であっても、それでも神さまは私を愛し、赦し、私という存在を「良し」と言ってくださっている。
そしてその愛はすべての人に注がれている。わたしも、あなたも、どんな人も、神さまに愛されている、大切な存在。私が好きな人も、私が好きになれない人も、私が嫌いな人も、私が知らないまだ出会っていない人も、みんなみんな神さまに愛されている神さまの子ども。
そのことに気がつくとき、愛である神さまとイエスさまを知るとき、私たちは「互いに愛し合いなさい」という言葉に招かれていることに気がつきます。
自分がどうかではなく、自分がどうしたいかでもなく、私を愛してくださっている神さまが、「互いに愛し合いなさい」と言っておられるのです。神さまに愛されていない人はいない。私も愛されている。それはなんとありがたく、安心を与えてくれることでしょう。
神さまの愛に招いてくださるイエス・キリストを知り、私たちも、互いに愛し合って共に生きていけますように。
