1わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません。
2あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。
3その立派な身なりの人に特別に目を留めて、「あなたは、こちらの席にお掛けください」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい」と言うなら、
4あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。
5わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。
6だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行くではありませんか。
7また彼らこそ、あなたがたに与えられたあの尊い名を、冒瀆しているではないですか。
8もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。
9しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。
<説教>「最も尊い教え」
今日は世界聖餐日です。もともとは第二次世界大戦前にアメリカで始まったそうですが、日本では戦後に、世界中のキリスト者が聖餐によって一つとなり、互いを認め合うことを祈って行われるようになりました。私たちも主の食卓を覚える時としたいと思います。
今日の聖書箇所はヤコブの手紙です。イエスの十二弟子には二人のヤコブ、大ヤコブ(ゼベダイの子ヤコブ、ヨハネの兄弟)と小ヤコブ(アルファイの子ヤコブ、)と呼ばれる人たちがいますが、この手紙を書いたのは、イエスの昇天後にエルサレム教会で指導者となったイエスの兄弟ヤコブ(マタイ13:55、マルコ6:3)だとされています。
ヤコブはイエスが復活する前は兄のしていることを理解していませんでしたが(マルコ3:31、ヨハネ7:5)、その後、イエスをキリストだと受け入れ、ペトロとヨハネに並んで教会の指導者となりました(1コリ15:7、1ガラ1:19)。
このヤコブの手紙には、「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(2:14)、「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(2:17)と述べているところがあり、プロテスタント教会の大切にしているパウロの信仰義認(ローマ5:1、ガラ3:11)と反すると誤解されることもあります。しかし、ヤコブとパウロの主張はなんら対立しないということは以前の礼拝でも確認しました。ヤコブはこの手紙で、救いについてではなく、信じて救われた人たちへ信仰の成熟について教えているのです。
神の救いは、神の愛によって一方的に与えられる恵みです。私たち人間は、どんな人も神の前で等しく罪人です。どんな人も自分の行いによって救われることはないけれど、神は私たちを愛して、イエス・キリストの十字架と復活によって救われた。それは誰も自分を誇ることがないためです。
そうして、イエスに救われた者は、罪の奴隷から解放されて、イエスのものとなりました。
それはイエスに従って、新しい命に生きるようになるためです。
ヤコブとパウロは「信仰」と「行い」を対立させようとしたわけではありません。その二つを調和させようと教えています。「信仰か行いか」ではなく、「信仰、そして行い」なのです。信仰が先行し、信仰には行いが伴います。
パウロも言っています。「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(ガラテヤ5:6)。
割礼のような見せかけではなく、愛の実践を伴う信仰が大切だと言うのです。
また、「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と純真な信仰とから生じる愛を目指すものです」
(1テモ1:5)とも述べており、信じて終わりということは言っていません。
私たちが神やイエス・キリストを信じるとは、その存在を信じるということではありません。
信じるとは、神とイエス・キリストを信頼して、その愛の道を従って歩もうとすることです。
「あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています」(ヤコブ2:19)
神の存在を信じ、しかし神を信頼せず、その道に従わず、ただその裁きを恐れるだけなら、私たちはイエス・キリストとは何のかかわりもない、悪霊と変わりません。
でも、私たちはそうではないはずです。私たちは愛され、赦され、神の子とされました。
だから、恐怖からではなく、喜びから、イエス・キリストに従うものになりたいと思うのです。
ヤコブの手紙2章の後半では信仰者の例として、アブラハムとラハブという二人の人物が挙げられています。アブラハムはヘブライ人たちの信仰の祖であり、ヘブライ人たちが神に選ばれるきっかけになった人です。彼は神を信頼し、故郷を捨てて神が示された土地へ移り住みました。また、心から誕生を待ち望んだわが子を神に捧げようとしました。信じ、行動に移したのです。アブラハムはヘブライ人たち、今日のユダヤ人たちからとても尊敬されている人です。
そして、ラハブ。この人は旧約聖書ヨシュア記2章に出てくる異邦人の遊女です。彼女は異邦人でしたが、ヨシュアの家来を助けます。異邦人も遊女もヘブライ人社会からすれば低くみられる対象でしたが、この人はサルモンという人と結婚し、ルツ記のルツと結婚するボアズの母となります。その子孫がダビデ王であり、イエス・キリストです。異邦人、遊女、女性という、当時のヘブライ人の社会から低くされた人を通して、神の子であり、すべての人の救い主が生まれた。そこに神の働きがあります。神は、私たち人間の見るようには世界を見られません。アブラハムも、ラハブも神の目に同じなのです。
信じて、行う。その行いとは何か。
ヤコブは、最も尊い律法、神の教えとして「隣人を自分のように愛しなさい」を挙げています。
このことはイエス・キリストが私たちに言われたことでした。
なるほど、さすが神の子、良いこと言うなあ!
でも実際に、隣人を自分のように愛するとはどうすればいいのでしょう。
今日の聖書箇所は、隣人を自分のように愛する方法の一例を教えてくれています。
「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(2:1)
人を分け隔てすること、差別すること。残念ながら私たちは日常的にこれをしているのではないでしょうか。昨年、アイルランドの体操協会が黒人の女の子だけにメダルを渡さなかったことが、インターネットによって拡散し、先日、体操協会が謝罪するということがありました。
また、遠い国のことだけでなく、この日本でも外国人やアイヌの人や沖縄の人、被差別部落の人、女性や障がい者、老人、経済的に困っている人など、様々な差別があります。
テレビなどでも、自己責任論や優生論を説く人がいまだに出てきます。しかし、その行き着く先は
愛のない自己中心的な世界、地獄のような世界です。
おそらく、差別する心というものは、誰の心にもあるものです。恥ずかしながら、私の心にも差別心があります。これはもちろん、悪いことです。
でも、いいのです。
人間は皆、罪人なのだから、自分の中に悪があることは当然のこと。
「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と神は言われます(創世記8:21)。
神はそのような私たちをも愛してくださっています。
ただ、イエス・キリストに従おうとするなら、そのままではいられません。
心に悪いことを思っても、それを実行に移さず、イエス・キリストの心を求めて、イエス・キリストに従っていきたいのです。
それは難しいことかもしれません。でも、神の霊、聖霊は私たちとともにおられ、私たちが変わる力を与えてくださいます。自分たちが自分たちでは出来ないことをさせてくださる、それが神です。
神は私たちを赦し、新しい人間としてくださった。過去を赦して、未来に希望を持ちながら、今を互いに愛し合って生きるためです。迷い、時間はかかっても、何度つまずいても、最後には着くはずだと、神に信頼して歩いていきたいと思うのです。
自分と違う立場の人とも礼拝を共にすること、礼拝の中で差別しないこと、聖餐や愛餐を共にすること。今日はそのことが教えられています。
当時、ユダヤ教では異教徒や罪人とは食事を共にしませんでした。罪人と食事をするものは罪人と同じようにみられました。自分は罪人とは違う、その特権意識がそうさせたのでしょう。
でも、すべての人は罪人、そう聖書は教えています。そしてイエス・キリストは罪人の中へ入って、食事を共にし、私たち罪人の友となってくださいました。それはすべての人を救うためでした。
ローマ帝国や今日の世界でも、異なる社会的身分の人が食事を共にすることは稀です。しかし、イエス・キリストはその隔ての壁を打ち壊されます。すべての人が罪人であり、すべての人が、愛されている神の子として、神の家族とされ、同じ食卓に着く。それが礼拝であり、世界聖餐日に覚えることです。
確かに私たちには様々な違いがあります。しかし、そこに神は優劣をつけることはなさいません。
それなのに、私たちは自分を誰かと比べてしまい、誰かを妬んでしまう。誰かよりも上になりたくて、誰かを蹴落とそうとする。でもそこには何の価値もありません。
私たちにとって価値があるのはイエス・キリストのみです。
神は私たちそれぞれを愛し、それぞれに違う賜物を与えてくださっている。
それぞれ、できることもできないことも、得意なことも不得意なこともあります。
みんなが同じである必要はありません。だからこそ、こうして集められ家族とされているのです。
私たちは、違いを生かしあい、補いながら、ともに喜びあって、一緒に生きていきましょう。
