2023年 10月15日 聖霊降臨節第21主日 マタイによる福音書 14章22-33節

                             

22それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。 

23群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。 

24ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。 

25夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。 

26弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。 27イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」 

28すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」 

29イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 

30しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。 

31イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。 

32そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。 

33舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

目次

<説教> 「湖の歩き方」 秋山千四郎牧師(琴似中央通教会)

聖書を読む上で重要なキーワードがある。例えば、先ほどお読みいただいた14章23節に、イエスが「祈るためにひとり山にお登りになった」とある。これは、イエスがひとりで登山をなさった、という意味ではない。聖書で「山」という言葉が出て来たら、それはいつでも「祈りの場所」「礼拝をするところ」という意味だ。思い切って「教会」と言い換えても正解だ。だからここは、イエスは祈るためにひとりで教会に行かれた……という意味だ。聖書に「山」は頻繁に出て来る。モーセが十戒を授かったのはシナイ山だ。イエスは山上で説教をなさった。また、山でイエスの姿が白く光り輝いたという記事もある。ゲツセマネの園は別名オリーブ山だ。これらの出来事はすべて祈りの場所での出来事、すなわち教会で起こった出来事、礼拝の中での出来事として読むことができるわけだ。

そして、「山」と言えば川ではなく「海」だが、「海」あるいは「湖」という言葉もキーワードの一つだ。聖書で「海」あるいは「湖」と言ったら、それは、不安、混乱、混沌、不条理……そういう事柄を現す言葉だ。

ちなみに聖書の中で、最も有名な「海」にまつわる物語は何かと言うと、それは『出エジプト記』に出て来る、モーセが海を真っ二つに割ったという物語だろう。あの物語が語っていることは何かと言うと、モーセが当時のイスラエルの民が直面していた不安、混乱、混沌、不条理を、真っ二つに引き裂いた、と言うことだ。そしてイスラエルの民は、その引き裂かれた不安、混乱、混沌の真っただ中に拓かれた一本の道を歩んで行った。そのようにして、救いへと、解放へと導かれて行った、という心躍るようなメッセージだ。また「黙示録」には、天の国には「海がない」と書かれている。その意味するところは、天の国には、不安、混乱、混沌はない、ということだ。

そこで今日の箇所だが、弟子たちを乗せた一そうの舟が、向こう岸に向かって湖の上を航海して行くわけだ。ところが、風が出て来て、波が立って、舟は進むことも戻ることもできない、そんな危機的状況に陥ってしまうわけだ。

このようなことは、私たちが人生において、しばしば経験することだ。人生とは、不安、混乱、混沌という名の湖を航海するようなものだ。そして、しばしば強風が吹き、大波が立ち、私たちもまた、前に進むことも後ろに戻ることもできない、そんな窮地に立たされることがある。

そしてそんな時、私たちの一番の関心ごとは、イエスは、どこにいらっしゃって、どこからやって来てくださるのか……ということではないだろうか。そこで今日の聖書は、先ず、そのことについて答えてくれている。イエスは、どこにいらっしゃって、どこからやって来てくださるのか……。イエスは、天におられて、天からスルスルと降りて来てくださる、のではない。また、イエスは、私たちの心の内におられて、私たちの心の中からモワモワと湧き出て来てくださる、のでもない。

実にイエス・キリストは、湖の上におられて、湖の上を、歩いてやって来てくださるのだ。つまり、イエス・キリストは、私たちが抱えている様々な課題や問題のただ中におられるということだ。そして、イエス・キリストは、私たちが抱えているそうした様々な課題や問題の真っただ中から、私たちの方に向かって、やって来てくださる、ということだ。

これは、とても重要なメッセージだ。つまり、私たちは、私たちが抱えている様々な課題や問題、不安・混乱・混沌から……逃げてはならないということだ。課題や問題から逃げることは、実は、イエス・キリストから逃げること、救いから逃げることなのだ。それらを投げ出すことは、実は、イエス・キリストを投げ出すこと、救いを投げ出すことに他ならないのだ。だから、様々な課題や問題、不安・混乱・混沌から逃げないこと、投げ出さないこと……そこに留まること……そこに身を置き続けること……課題や問題と向き合うこと……これがイエス・キリストと出会うための第一歩である……これが救いに至るための第一歩である……これが、今日の聖書の第一のメッセージだろう。

続いて、第二のメッセージが後半のところに記されているが、それは、私たちもまた、ペトロのように、湖の上を歩くことができる、ということだ。私たちも湖の上を歩くことができる……すなわち、私たちもまた、私たちが抱えている課題や問題、不安や混乱や混沌のただ中を歩いて行ける、生きて行けるということだ。

では、どのようにしたら歩いて行けるのか。生きて行けるのか。ありがたいことに、今日の聖書は、その具体的な方法、「湖の歩き方」について教えてくれている。その方法は、単純と言えば単純なこと、しかし、難しいと言えば難しいことだ。それは、イエス・キリストから目を離さないことだ。

つまり、今日の前半のメッセージとして話したけれども、私たちが抱えている課題や問題の真っただ中におられるイエス・キリストに、注目し続けること、決して目を離さないこと……それさえできれば、私たちもまた、ペトロのように、湖の上を歩くことができる……課題や問題、不安・混乱・混沌のただ中を生きて行くことができる……このように聖書は教えている。

しかし、ちょっとでもイエス・キリストから目を逸らしてしまうならば……わき見をして、風や波を見てしまうならば……つまり、私たちを取り巻いている課題や問題、不安・混乱・混沌の方に目を奪われるなら……私たちもまた、ペトロのようにたちまち溺れてしまうのだ。

しかし感謝すべきことに、31節にあるように「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえて」くださる。溺れる私たちの手を掴み取ってくださる。そして、私たちは、叱られる……「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と叱られる……。これはありがたいお叱りの言葉ではないだろうか。イエスに叱っていただけることは、ありがたいことだ。「信仰が薄いぞ。不信仰だ。なぜ問題ばっかりを見て、私を見ない?私を見よ、私から目を逸らすな、私を信ぜよ」……このように叱ってくださるのだ。

ここから、不信仰とは何か、ということが分かる。不信仰とは、イエス・キリストから目をそらしてしまうことだ……。不信仰とは、課題や問題、不安・混乱・混沌ばかりを見つめて、それに囚われ、それに振り回され、それに支配されてしまうことだ。要するに、イエスを主としないで、課題を主、問題を主、不安・混乱・混沌を私の主としてしまうこと……これが不信仰だ。

では、信仰とは何か。信仰とは、イエス・キリストから目を離さないことだ。課題や問題、不安・混乱・混沌の中に身を置きながらも、しかしそこで、ただイエス・キリストのみに注目して、イエスを主として、課題や問題、不安・混乱・混沌を、決して主とはしないこと……それらに囚われないこと、振り回されないこと、支配されないこと……ただイエスのみに囚われ、イエスのみに振り回され、イエスのみに支配されて生きて行くこと……これが信仰だ。そして、このような信仰を持つ者が、湖の上を歩くことができるのだ。

そして、これが聖書の教える「救い」ということだ。聖書の教える救いとは、課題や問題、不安・混乱・混沌が消えてなくなってしまうことではない。確かにそういうことを教える宗教が世にはある。「うちの神様を信じれば、課題や問題がなくなりますよ。不安も混乱も混沌も、すべてきれいさっぱり消えてなくなりますよ」……しかし、キリスト教はそうは教えない。

キリスト教が教える救いとは、湖の上を歩けるようになることだ。イエス・キリストのみを「主」として、私たちが抱えている様々な課題や問題、不安・混乱・混沌を決して「主」とせず、課題や問題から自由にされて、不安・混乱・混沌から解放されて生きて行くこと……これが救いということだ。

いずれにせよ、ポイントは、イエス・キリストから目を離さないことだ。イエス・キリストを見つめ続けることだ。時が良くても悪くても、豊かな時にも貧しい時にも、健やかな時にも病める時にも……結婚式の誓約ではないが、いついかなる時にも、イエス・キリストから目を離さないこと……そこに私たちの救いがかかっているのだ。

では、イエス・キリストから目を離さないこと、イエス・キリストを見つめ続けるということの具体的な行動、その実践は何かと言うと、それは詰まるところ~結局のところ、主日礼拝を大切にするということになるだろう。時が良くても悪くても、日曜の朝10時半には教会に集うこと……そのために、月曜から土曜までの日々の生活を調整し、やりくりをして、日曜日に向かって、主日に向かって日々の生活を整えて行くこと……これがイエス・キリストから目を離さないということの具体的な行動であり具体的な実践だろう。

信仰は観念ではない。信仰は思想でも哲学でもない。信仰は実践だ。信仰は生活だ。主日礼拝を大切にすることによって、私たちは湖の上を歩けるようになるのだ。この世の嵐のただ中を、課題だらけ、問題だらけ、不安・混乱・混沌の渦巻くこの世の嵐のただ中を、いわば「順調に問題だらけ」と……これはベテルの家の人が良く言う言葉だ……「順調に問題だらけ」と……ユーモアをもって、微笑みながら、軽やかに、自由に生きて行くことができるのだ。

これが、キリスト者として生きる、ということだ。しかし、私たちもまた、ペトロのように溺れることがある。その時はすかさず、イエスは私たちの腕を捕まえてくださる。そして、叱ってくださる「信仰が薄いぞ。しっかりせい」と……。そんなキリスト者の歩みを、今週もこの教会から、この礼拝から、歩み出して行きたいと思う。

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