2023年10月22日 聖霊降臨節第22主日 ヘブライ人への手紙11章32節~12章2節

32これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう。

33信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、

34燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました。

35女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました。他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。

36また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました。

37彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、 38荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました。世は彼らにふさわしくなかったのです。

39ところで、この人たちはすべて、その信仰のゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした。

40神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです。

1こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、

2信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。

目次

<説教>「イエスを見つめながら」

今日は月寒教会の創立75周年を記念する、創立記念礼拝です。

キリスト教では主の主権を信じます。目には見えなくとも、神が私たちの上に、私たちの間におられ、私たちを用いて働いて下さる。

この教会のあたりは、戦中には陸軍の北部軍司令部があり、戦後には樺太や満州、シベリアなどから引き揚げてきた方々が住んでおられたのだそうです。神は信仰の先輩方を用いて、希望と平和の福音を宣べ伝えるべく、この地に教会をお建てになりました。そして、神によって集められた皆さんが教会を守ってこられ、75周年を迎えることが出来ました。これまでの皆さまの歩みとともに主が共におられたと信じ、感謝いたします。これからも月寒教会に集われる皆さまと、月寒教会とともにあるこども園しののめの皆さまの上に主の祝福がありますように。そして、教会とこども園のお働きを通して、主の愛を証しし続けることが出来ますようにとお祈りしています。

昨日は4年ぶりにミニバザーが開かれました。雨が降ると聞いていましたが、朝起きてみると青空。思わず「神さま凄い!」と言ってしまいました。他の人からすれば、ただの偶然だと思われるような、小さな日常の中に、主の働きを感じて感謝する。それも主の恵みだなと思います。

教会の皆さん、CSやエマオの皆さん、こども園の皆さんやねっこぼっこのいえ、地域の皆さんなどたくさんの方々との良い交流の一時となりました。ご奉仕してくださった皆さん、献品してくださった皆さん、参加してくださった皆さん、参加できなくても祈っていてくださった皆さんに感謝いたします。このような繋がりも教会と園との活動から生まれてきたもの。月寒教会の75年の歴史の一端を感じることが出来ました。

さて、今日の聖書箇所はヘブライ人への手紙です。この手紙は宛先や著者が明記されていません。

パウロではないかと考える人もいますが、はっきりしたことは分かりません。

ただ、『「天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」イエスが、死の苦しみのゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています』(2:9)と言っているので、この手紙の著者はイエス・キリストの十字架の死と復活を見た弟子たちに近い人だったのかもしれません。

手紙の主な内容は、イエスをキリスト、救い主と信じた人たちの信仰に迷いが生じたため、励まそうとしているようです。「ヘブライ人への手紙」とあるように、もとはユダヤ人だったけれどもキリスト教徒になった人たちが再び、ユダヤ教の律法に惹かれるのを戒めているようにも読めます。

この手紙の受け取り手がヘブライ人、ユダヤ人だとして、彼らが律法に心ひかれたとしても不思議はありません。私たちも目に見える確かなものが欲しいという気持ちはよく分かるのではないでしょうか。イエス・キリストがこの地上におられたときに出会い、弟子になった人たちとは違い、私たちは目に見える形でイエス・キリストにお会いしたことはありません。救いや赦しは目に見えない。本当に私は赦され、救われているんだろうかと不安になるのも分かります。一方、律法は、これをしなさい、これをしてはいけない、と分かりやすいです。律法に背いて罪を犯したときには神殿で生け贄を捧げ、祭司にとりなしてもらえばいい。でもそれは時に形だけになってしまい、神との取引をするような形になってしまう。そして律法に背くものは罪人として裁かれてしまう。

でも私たち人間は皆、不完全で罪を犯す存在であり、神と取引できるような存在ではありません。

そして律法もまた「やがて来る良いことの影」(10:1)であって、不完全です。律法の定めるところの生け贄では私たちの根源的な罪を完全に清めることはできない。だから罪を犯すたびに生け贄ととりなしが必要になってしまう。神はイエス・キリストを通して、その不完全なものを完全にしてくださいました。

イエス・キリストが十字架の死と復活によって与えてくださったのは、完全な罪の赦しと救いの約束です。完全な救いなので、世界のすべての人に及び、何度も生け贄を献げる必要はありません。イエス・キリストが私たちの身代わりとして、ただ一度ご自身を生け贄としてくださった。神はこれ以上のものは望んでおられませんし、また、私たち人間にはイエス・キリスト以上のものを献げることはできません。

イエス・キリストは私たちの身代わりに死んだだけでなく、復活し、天に昇り、神の右に居て、私たちのことを神にとりなしてくださっている。それと同時に、目には見えない神の霊、聖霊を通していつも私たちと一緒にいてくださっている。そして神が定められた時に、目に見える形でこの地上に帰ってこられ、この世界を完全なものにし、私たちに永遠の命を与えてくださる。目に見えなくても、私たちはその約束を信じ、信頼する。私たちは自分がイエス・キリストに救われたことを信じる、それが信仰です。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(11:1)

私たちキリスト者の使命は、キリストの福音を宣べ伝えることです。福音とは良い知らせのこと。神がイエス・キリストによって私たちを救ってくださった!もう大丈夫、あなたは救われた!

そう宣言することが福音の宣教です。

神は私たちの過去の罪を無かったことにしてくださる。だから今、自分の罪から離れてイエス・キリストに従っていこう。その道のりがどんなに険しくとも、最後には、必ずイエス・キリストが帰ってきて神の国を実現してくださる。たとえ私たちに出来ないことでも、神に出来ないことはない。

それが私たちの信仰であり、希望です。

この手紙の著者も、手紙の受け取り手も旧約聖書の律法や物語をきっとよく知っている人たちだったのでしょう。著者は旧約聖書の古事や様々な登場人物を例に出しながら、イエス・キリストを信じた初めの信仰を守るようにと励まします。

皆さんは、自分の信仰は何か足りないんじゃないかと他の人と比べて、僻んだり、ねたんだり、信仰を増すために何かしないといけないのではないかと焦ってしまう、そんな経験をしたことはないでしょうか。私はあります。でも、信仰は誰かと比べるものじゃないですよね。

神は私たちが清く立派だから愛してくださるのではない。特別だから愛してくださるのではない。

私たち、すべての人間は神に造られた神さまの子ども。何かする前から、私たちは神さまに愛されている。

そのことを受け入れるのが、信仰。私たちは神の愛に感謝しながら、イエスに倣って互いに愛し合おうとする。それだけでもう十分なのです。

でも一人ではなかなか難しい。分かったはずなのに、ついつい私たちは忘れてしまう。

神は「人が独りでいるのは良くない。」(創世記2:18)と言われます。

またイエスは、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)と言われます。

私たちが一緒に集まり、支え合ったり、励まし合ったりするために、神は教会とそこに集う神の家族を与えてくださいました。また、聖書や信仰の先輩たちを通して、私たちに信仰の証人を与えてくださいました。私たちは一人ではありません。聖書の書かれるずっと前から、神は私たち人間と出会ってくださった。聖書は神が出会った人間が残した証言集です。教会は証人の群れであり、私たちも先輩方の信仰を受け継いでいます。

「わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。」(12:2)

月寒教会の旧会堂の扉にはαとΩのレリーフが飾られていました。これは始まりと終わりを意味します。世界の初めも、終わりも、すべて愛の主であるイエス・キリストが支配してくださる。っだから、何も心配しなくていい。それが聖書のメッセージです。

もちろん、教会に集う私たち人間は完全じゃない。いっぱい間違いを犯します。教会もその2000年の歴史の中でたくさんの過ちを犯しました。しかし聖書にはその過ちを乗り越えさせてくださる力があると思うのです。

「憎しみはいさかいを引き起こす。愛はすべての罪を覆う。」(箴言10:12)

神はイエス・キリストによって、愛によって、世界を完全なものにしてくださいます。

世界を支配していいのは、憎しみや暴力ではなく、愛だけなのです。

なかなか、この世界は平和にならない。でも世界をお造りになった神は、殺すな、復讐するな、敵を愛せと言われます。そしてそのことを十字架によって証ししてくださいました。

なによりもまず、イエス・キリストを見つめましょう。

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)

とイエスは言われます。私たちはイエス・キリストによって神の子として招かれました。

そして、この教会もまた平和と希望を示すために建てられました。

私たちには大きなことは出来ないかもしれない。世界を変えることは出来ないかもしれない。でも何か出来ることを神は私たちに与えてくださっている。まず、身近なところ、私たちの周りから、平和を実現していきましょう。どんなときも、イエスを見つめながら。

主は私たちと共に、私たちの上に、私たちの内に、私たちの間にいてくださいます。今週もそのことを確認し、イエスを見つめながら、76周年に向けて、共に生きていきましょう。

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