2023年12月3日 降誕前第4主日・待降節第1主日 イザヤ書52章1~10節

1 奮い立て、奮い立て 力をまとえ、シオンよ。 輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。

無割礼の汚れた者が あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。

2 立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。 首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。

3 主はこう言われる。「ただ同然で売られたあなたたちは 銀によらずに買い戻される」と。

4 主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。

5 そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。

6 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。

7 いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。

彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。

8 その声に、あなたの見張りは声をあげ 皆共に、喜び歌う。

彼らは目の当たりに見る 主がシオンに帰られるのを。

9 歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。

10 主は聖なる御腕の力を 国々の民の目にあらわにされた。

地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ。

目次

<説教>「主の来臨の希望」

今日、12月の第一主日は、日本キリスト教団では「社会事業奨励日」とされています。月寒教会と共にある、こども園しののめや、キリスト教の精神に基づき、活動しておられる様々な分野の社会事業を覚えてお祈り頂けたらと思います。

さて、いよいよアドベントの始まりです。

アドベントはクリスマスに向けて準備をする時期です。

クリスマスの飾りつけをしていただいて、礼拝堂にも4つのろうそくの一つ目に火が灯りました。

この4つのろうそくの色は赤、これはイエス・キリストの十字架で流した血や命を表すとされています。

また、4つのろうそくにもそれぞれ意味があり、一つ目のろうそくは「希望」を表します。

今日の聖書日課の箇所も、希望についての預言です。

キリスト教にとって、聖書とはイエス・キリストを指し示すものです(ヨハネ5:39)。

今日は旧約の預言から、救い主が来られるという希望に目を向けていきましょう。

今日お読みいただいたイザヤ書は、預言者イザヤを通して語られたものです。彼は南ユダ王国の終わりごろの預言者です。弟子のグループがいたと考えられていて、1~39章までは第1イザヤ、今日のところは第2イザヤと区別して考えられています。この第2イザヤの預言には「苦難の僕」という、キリスト教にとって大変重要な預言があります。

わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。

主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。

乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。

見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。

彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに

わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。

彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

(イザヤ53:1~5)

わたしたちの罪を代わりに癒してくださった方、この方こそがイエス・キリストです。

私たちの常識ではありえない仕方で、神は私たちを救ってくださるお方です。

今日の聖書箇所、イザヤ書52章も私たちでは考えもつかないような救いについて述べられています。

この預言は、神に背き、捕囚となったイスラエルへの回復を告げ、励まそうとするものです。

そして、その救いはイスラエルを越えて、国々の民、すべての人へと及んでいきます。

奮い立て、奮い立て 力をまとえ、シオンよ。

輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ。

無割礼の汚れた者が あなたの中に攻め込むことは再び起こらない。

立ち上がって塵を払え、捕らわれのエルサレム。首の縄目を解け、捕らわれの娘シオンよ。

主はこう言われる。

「ただ同然で売られたあなたたちは 銀によらずに買い戻される」と。(イザヤ52:1~3)

神に背いて国は滅ぼされ、多くの民は捕囚とされ、搾取されている。

頼るべき王も城壁も神殿も、すべて無くなった。人間の力は空しい。

人の千年は、神の前では1日に過ぎない。(Ⅱペトロ3:8)

どれほど武力や富を誇り、どれだけ栄華を極めようと、

「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。

風がその上に吹けば、消えうせ 生えていた所を知る者もなくなる。」(詩編103:15~16)

しかし力を落とすシオン、エルサレムに、「奮い立て、奮い立て」と主は励まします。

もはや恐れを抱く必要はない。主は囚われた人に解放を告げ、

「ただ同然で売られたあなたたちは 銀によらずに買い戻される」と言われる。

私たちは銀ではなく、イエス・キリストの血、神の子の命によって買い戻された。

主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した。 そして今、ここで起こっていることは何か、と主は言われる。わたしの民はただ同然で奪い去られ、支配者たちはわめき、わたしの名は常に、そして絶え間なく侮られている、と主は言われる。 それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、「見よ、ここにいる」と言う者であることを知るようになる。(イザヤ52:4~6)

神の民、ヘブライ人たちはエジプトで虐げられたが、神によって解放された。アッシリア人も神の民を搾取し、民はいまバビロンで捕囚とされている。支配者たちは好き勝手にわめいて神を侮辱している。

「お前たちの神はどこにいるのか」、「神などいない」、「お前たちは神に見捨てられたのだ」

それゆえ神ご自身が立ち上がってくださった。

キリスト教、ユダヤ教、イスラームは啓示宗教だと言われます。「啓示」とは、神ご自身が自分を人間に現すこと。人間が神を探し求めて出会ったのではなく、神ご自身が私たちに出会ってくだった。

神が私たちに、ご自分が神であることを教えてくださるのです。

私たちの神は、遠いどこかにおられるのではなく、「見よ、ここにいる」と私たちに出会ってくださる方。

「わたしはある」(出エジプト3:14、ヨハネ福音書8:58)と言われる方です。

キリスト教の教えの核心は、神が私たちと一緒にいてくださるのだ、という事です。

いかに美しいことか 山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。

彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え 救いを告げ

あなたの神は王となられた、と シオンに向かって呼ばわる。

その声に、あなたの見張りは声をあげ 皆共に、喜び歌う。

彼らは目の当たりに見る 主がシオンに帰られるのを。(イザヤ52:7~8)

イエス・キリストは宣教活動を始めた時に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われました。

「福音」とは「良い知らせ」のこと。王の勝利や世継ぎの誕生を告げるような喜ばしい知らせのこと。

その知らせは、「平和」「恵み」「救い」の知らせ。私たちの神が、私たちの王となられた!という知らせ。

それは何と美しい、喜ばしい知らせでしょう。滅び去る人間ではなく、神ご自身が、エジプトから我らを導き出されたように、再び私たちの王となってくださった。

「見張り」は城壁や塔に立ち、辺りを警戒して、何か異変が起きたら大声で叫び、人々に警告をする役目を持った人のこと。旧約聖書では預言者を見張りに喩えることが多いようです。

見張りは敵襲や神の裁きなどの危機を告げるだけでなく、王の帰還など喜ばしいことも告げます。

「見張りの人よ、夜明けはまだか。いつまで続く、この暗闇は」(讃美歌21、236番)

夜の闇のような、見通すことのできない混沌の世界。すべての人が神を忘れ、自分勝手に生き、憎み合い、殺し合う世界。不法のはびこり、愛が冷え、誰もが自分さえよければ良いと言う世界。

あぁ、いつになれば神は帰ってこられるのか。

しかし見よ、われらの王、われらの神、われらの主がついに帰ってこられた!

歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。

主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。

主は聖なる御腕の力を 国々の民の目にあらわにされた。

地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ。(イザヤ52:9~10)

この預言の通りに、イエス・キリストは世に来て、私たちの王となってくださった。

この出来事を、みんなで一緒にお祝いするのがクリスマスです。

とはいえ、私たちの住むこの社会の悲しい現実をどう捉えたらいいのか。海外ではウクライナとロシア、パレスチナとイスラエルの戦争は続いている。国内でも勝ち組、負け組、自己責任という価値観がはびこり、搾取や中抜き、詐欺が横行する。公文書は改ざんされ、悪法が通り、外国人や弱い立場の人が虐げられている。目の前が暗くなるようなニュースに、心がふさぎ込みそうです。

それでも主は、「奮い立て、奮い立て」と言われる。

なぜなら、すでに主が私たちと一緒におられるのだから。

キリスト教のいう「救い」は、「すでに」と「いまだ」の緊張関係だと言われます。

救いは「いまだ」完成していない。それは再び、主イエス・キリストが帰ってこられる時に完成する。

しかし、その救いは「すでに」始まっている。

イエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4:21)

と言われます。すでに、実現しているのです。

イエス・キリストはその生涯、特に十字架の死と復活によって、神の救いを実現してくださった。

だから、暗い現実の中で、イエス・キリストという神の光を心に持ち、その光に照らされて、希望を持ちながら、イエス・キリストの言葉に耳を傾けつつ、一緒に生きていく。

大丈夫、主は私の罪も、あなたの罪も、すべての人の罪を、わたしたちの罪を赦された。

まだ赦されていない者のように生きる必要はない。

神の民は赦されたことに感謝して、喜びながら、主の命令に従って、互いに愛し合う道を進んでいく。

神は私たちと一緒にいてくださる方、「見よ、ここにいる」と言われる方。

私たちは自分たちで完成させる必要はない。主はアルファでありオメガ。

救いを始められた方であり、完成させてくださる方が一緒にいてくださる。

たとえこの世がどんなに闇のようであっても、すでに光は来ている。

イエスは言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

(ヨハネ8:12) もうじき、クリスマスです。私たちの王、私たちの光が来てくださった。主が私たちと共にいてくださることを信じ、希望を持って生きましょう。

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