18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。
だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。
だから、世はあなたがたを憎むのである。
20 『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。
人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。
わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
21 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。
わたしをお遣わしになった方を知らないからである。
22 わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。
だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。
23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。
24 だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、
彼らに罪はなかったであろう。
だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
25 しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、
彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。
26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、
父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。
27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。
<説教> 「真理の霊」
今日は私たちの教会も所属する日本キリスト教団では「労働聖日(働く人の日)」とされています。これは5月1日の労働者の祭典、メーデーを意識したものです。キリスト教において労働は尊いものです。神は世界をお造りになられるために6日間働き、1日休まれたというのが今日の1週間の由来になっています。また、ローマ・カトリック教会では労働聖日はイエスの養父である大工のヨセフの日とされています。ヨセフは家族を養うために大工として働き、その子として育ったイエス・キリストも宣教活動を始める30歳くらいまでは大工として働いていたと考えられます。
そして、私たちプロテスタント教会では万人祭司(全信徒祭司説)といって、すべての人が神から役割を与えられて神のために働くのだと考えます。小さなことにも忠実に働く人を神は褒めてくださいます(ルカ福音書16章10節など)。
一方で、神ではない私たち人間の社会では、ともすれば権力者や雇用者と被雇用者の間に搾取構造が生まれます。メーデーは、普段弱い立場にいる労働者が団結して権利を主張し、労働環境の改善を訴えるデモンストレーションをする日でもあります。今日、日本でも8時間労働や有休、労災などの仕組みが一般化しましたが、昔は12時間労働や14時間労働などが当たり前だったと言います。きつい労働によって病気になっても保障されず、使い捨てにされて生活に苦しむ、そんな話を聞いたことがあります。それらが改善されていったのは、私たち労働者の先輩たちが改善を訴えたからでした。また、雇用者側からもキリスト教の影響を受け、労働環境の改善を目指し、協同組合や労働組合運動、幼児教育の先駆けとなったロバート・オウエンのような方々が活躍しました。
労働問題と聖書と何の関係があるのかと思う人もいるかもしれません。しかし、聖書には弱い立場にいる労働者たちへの優しい眼差しに満ちています。
「弱い人を搾取するな、弱いのをよいことにして。 貧しい人を城門で踏みにじってはならない。」(箴言22章22節)
「指導者に英知が欠けると搾取が増す。 奪うことを憎む人は長寿を得る。」(箴言28章16節)
「同胞であれ、あなたの国であなたの町に寄留している者であれ、貧しく乏しい雇い人を搾取してはならない。」(申命記24章14節)
「主はこう言われる。正義と恵みの業を行い、搾取されている者を虐げる者の手から救え。寄留の外国人、孤児、寡婦を苦しめ、虐げてはならない。またこの地で、無実の人の血を流してはならない。」(エレミヤ書22章3節)
私たちが神を礼拝する日である安息日は、同時に労働者に休息を与えることを目的とした日でもあります。また、イエスが語られた「ぶどう園の労働者のたとえ」のように、満足に働くことが出来ない人への配慮も神はしておられます(マタイ福音書20章)。雇用者も、被雇用者も、すべての人が、互いに神に愛されている大切な人だということを忘れず、互いに敬意をもって、安心して働くことが出来る社会でありますように。そのことによって、主が賛美されますように。雇用者も、被雇用者も、すべての働く方々、お疲れ様です。主の祝福とお守りがありますように。
さて、私たちは日本キリスト教団の聖書日課に従って礼拝で読む聖書の箇所を選んでいます。先週、ヨハネ福音書の最後のところを読みましたが、今週は少し戻ってヨハネ福音書の15章が選ばれています。私たちは、復活したイエス・キリストが弟子たちと過ごされた時間を追想しながら過ごしています。イエスは天に帰った後、ご自分の代わりに見えない神の霊・聖霊を送ってくださいました。今日の聖書箇所ではその聖霊について語られています。
イエスが弟子たちの足を洗い、弟子たちに模範を示し、互いに愛し合うようにと命令を与えた後の場面です。イエスはご自分が天へと帰られた後に、弟子たちの身に起こる迫害を予告し、励ましを与えました。
キリスト教はユダヤ教から生まれましたが、その当時、ユダヤの地はローマ帝国に支配されていました。ローマ帝国は多神教社会であり、人の手で作られた多くの偶像が拝まれていました。目に見えない唯一の神を拝むという信仰は理解されにくく、目に見える神々の像を拝もうとしないユダヤ教徒やキリスト教徒はしばしば無神論者だと批判されたといいます。自分たちに理解できないことをしている、頑固でおかしな連中だと思われていたのです。また、ローマ帝国では皇帝は「神の子」と呼ばれ、カリグラ帝やドミティアヌス帝のように自分を神と称し崇拝させようとした皇帝もいました。そのようなローマ帝国への忠誠を要求する世界において、イエスを「神の子」、「主」、「真の王」と呼ぶキリスト教の信仰は初めから対立を避けえず、迫害を受けました。1世紀中ごろのネロ帝の時代に使徒ペトロやパウロは殉教し、1世紀後半のドミティアヌス帝の時にも大きな迫害がありました。2世紀初めに小プリニウスが残した手紙の中でも、キリストへの信仰を捨てなかった信徒は処刑すると述べられています。
また、イエス・キリストへの信仰は、その母体となったユダヤ教からもしばしば攻撃を受けました。ステファノ、ゼベダイの子ヤコブ(12弟子の一人でヨハネの兄弟)、イエスの兄弟ヤコブといった教会の主だった人々も同じユダヤ人によって殉教しました。
キリスト教はユダヤ教の中の宗教改革であり、神の子イエス・キリストの愛の道こそが真のユダヤ教の教えだと主張するものでした。しかし、ユダヤ教との別れを決定的にしたとされる出来事が起こります。西暦66年~73年にかけて起こった、ローマ帝国からの独立戦争、ユダヤ戦争です。キリスト教徒はこの戦争に参加しませんでした。それは「剣を取るものは皆、剣で滅びる」(マタイ福音書26章52節)、「殺してはならない」(出エジプト記20章13節、申命記5章17節)、「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」(マタイ福音書24章16節)などの聖書の教えによるのでしょう。しかし、このことによって他のユダヤ人の恨まれたのでしょう。エルサレム神殿の崩壊後に主流派となったファリサイ派によって、ユダヤ人の会堂であるシナゴーグから追放されることになりました。
世がイエス・キリストの弟子たちを憎み迫害する時、私たちの先生であるイエス・キリストも世から憎まれ迫害されたことを思い出しなさいと今日の聖書箇所で言われています。
神は御子イエスを遣わしたほどに、世(神に創造された、人間を含むこの世界すべて)を愛しておられます(ヨハネ福音書3章16節)。ですから、ここでいう世とは、この世界のすべてのことではなく、人間の作り出した自己中心的な社会のことを指すと考えるのが良いと思います。他者を思いやらず、力で支配し、道具のように扱う愛のない社会のことです。奴隷制度や身分制度があり、身分の違う人や異邦人とは食事を共にすることも赦されませんでした。
そのような世界にあって、イエスはそうではない価値観を提示しました。それは、神の愛を受け入れ、私たち一人ひとりが、互いを大切にしあうような関係、社会です。神のもとではみな平等であり、すべての人は神に造られ愛されている神の子どもです。神はその子どもたちが互いに大切にしあいながら生きることを望んでおられます。それは今日の社会でも耳にするような、帝国主義や植民地主義、優生論や弱肉強食、自己責任論などとは真逆の世界、人権が守られた社会と言えるでしょう。富や暴力が支配するのではなく、神の愛が支配する世界です。主イエスは「御国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」(主の祈り)と祈るようにと教えています。
しかし、今日でも社会の改善を望む声が封殺されるように、弱い立場にいる人の立場に立った声が邪険にされるように、権力のある側、力のある側は、そのような人々を憎みます。イエス・キリストは神の愛を体現する方として、この世にあって、いつも小さくされた人たちの側に立たれました。暴力や富といった力に従わず、愛を説きました。それゆえに、この世の権力者から憎まれ、十字架につけられて殺されました。
私たちの先生であるイエスは世から迫害を受け、冷遇されました。弟子は先生に優りはしないのだから、弟子である私たちも迫害や冷遇を覚悟しなくてはならない。イエスは迫害された。また私たちの信仰の先輩である弟子たちも迫害された。それは、迫害する者が愛である神を知らないからです。真の神よりも他の物、世の力、権力や富、暴力など偽りの神、偶像を拝んでいるからです。
こうした迫害をするものの力は強く、自力で対抗するのは難しい。しかし、主イエスは私たちに神のもとから「弁護者」を遣わしてくれると約束します。この弁護者とは新約聖書の原文ではパラクレートス、「助け主」「慰める者」とも訳される言葉で、見えない神の霊・聖霊のことです。
イエスが十字架にかけられた時、弟子たちは世を恐れてイエスを見捨てて逃げました。しかし、神からの弁護者、真理の霊、聖霊が与えられたとき、弟子たちは危険を恐れずイエス・キリストについて証しをするものに変えられました。
私たちもイエス・キリストを信じて洗礼を受けるとき、父と子と聖霊の御名によって受けます。その時、私たちにも目に見えない神の霊、聖霊が与えられました。それはとりもなおさず、私たちを慰め、助け、弁護してくださる神がいつも共に居られるということです。私たちは独りではなく、神が共にいてくださっています。また、洗礼を受けていない方や子どもたちも、聖霊なる神に招かれてここにおられるのだと信じます。
イエスは神の国について宣べ伝えられました。神の国とは、愛の神が支配し、神の御意志が実行される国のこと。イエスの言葉を聞き、従う者の国のこと。この世の力の論理ではなく、神を愛し、互いに愛し合うということが物事を動かす国のことです。
神の国は確かにあり、近づいている。イエスのみ言葉を聞いた時に実現している。完全にはなっていませんが、だからこそ私たちは主の祈りを祈ります。そうして、自分たち信じる者の間で神の国を実現しつつ、まだイエスを知らない人々に向かっても、イエス・キリストの福音、神の愛を伝えていくのです。
それは自分自身の力だけではできません。私たちと共にいてくださる真理の霊・聖霊を信じ、いつも祈りながら、希望を持って共に生きて行くのです。最後にはイエス・キリストが帰って来られ、この世に新しい神の国を建ててくださる。そのことを信じつつ。
