5 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。
6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。
「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」
これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。
7 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」
これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。
8 では、何と言われているのだろうか。
「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。」
これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。
9 口でイエスは主であると公に言い表し、
心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。
11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、
御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。
13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。
14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。
聞いたことのない方を、どうして信じられよう。
また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。
15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。
「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。
16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。
イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。
17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
<説教> 「だれでも」
今日は異邦人への使徒、パウロが書いたローマの信徒への手紙です。新約聖書は4つの福音書と使徒言行録、そして様々な手紙から成っていますが、このローマの信徒への手紙はそれらの手紙の冒頭に配置されています。これはこの手紙が特に重要視されたからだと考えられています。
現在のトルコからギリシャにかけての地域に宣教し、あちこちに教会を建てたパウロは、当時の地の果てと考えられていたイスパニア、現在のスペインへの宣教を考えます。そのために、ローマにあった教会を足掛かりにしたいと思ったようです。
当時、すでにローマには教会がありました。しかし、これはパウロが建てたものではなく、パウロはまだこの教会の人々とは顔見知りではありませんでしたが、この教会のメンバーであるアキラとプリスキラというユダヤ人の夫婦と、ギリシャのコリントで出会っていました(使徒18章2節)。パウロはこの二人からローマの教会について聞いていたのかもしれません。
先日のペンテコステの日に、聖霊降臨日の出来事について読みましたが、そこには世界の各地からエルサレムに巡礼に来ていた人たちのことが書かれていました。イエスの一番弟子であったペトロは聖霊に満たされて、その人々にイエス・キリストの福音を伝え、約三千人が信じるようになったと書かれています(使徒2章14節)。この人々がそれぞれの場所に帰り、そこに世界中に教会が出来ていたとも考えられます。もしかしたら、このローマの教会もその一つだったのかもしれません。
当時、ユダヤ人は地中海世界のあちこちに住んでおり、ローマにもユダヤ人がたくさん住んでいました。やがて、ローマでイエス・キリストを信じるユダヤ人と、そうではないユダヤ人の間で対立が起き、クラウディウス帝の命令によってユダヤ人はすべてローマから追い出されるという出来事が起きました。このことがきっかけで、アキラとプリスキラがパウロと出会ったのです。
クラウディウス帝が亡くなると、ユダヤ人追放の命令は取り消されます。しかし、ユダヤ人キリスト者がローマにもどってみると、ローマの教会ではユダヤ人以外のキリスト者の勢力が大きくなっていたようです。そして教会の中で、旧約聖書の教え、律法も重視するユダヤ人キリスト者と、律法を重視しないユダヤ人以外の異邦人キリスト者の間で対立が起こるようになりました。パウロはこの両者を和解させたいと望んでいたようです。パウロは、自分たちユダヤ人の誇りとする律法を守ることでは救われず、ただ、キリストを信じることで救われることを教えました。それは、だれも自分自身を誇り、他者を見下さないためです。その教えは今日、信仰義認として理解されています。
パウロの教えに由来する「信仰義認」。「義認」とは、神によって「良し」とされるという意味です。旧約聖書によると、私たち人間は神に造られ、「良し」とされました(創世記1章31節)。しかし、人間は「神のように」なろうとして(創世記3章5節)神に背いて、決して食べるなと言われた「善悪の知識を知る木」の実を食べてしまいました。しかし、あくまでも神に造られた存在である人間は、決して神にはなれません。愛である神から離れて、自分勝手に「善悪」を判断し、裁き合う、自己中心的な存在になってしまいました。この私たち人間の持っている自己中心性を「罪」と呼んでいます。
神は、私たち人間が互いに愛し合い、ともに生きて行くために、善いものとして守るべき掟・律法を与えてくださいました。しかし、私たち人間には罪があり、自らの持つ自己中心性から完全に逃れることは出来ません。だから、私たち人間は、律法を完全に守ることは出来ないのです。パウロは律法を「キリストのもとへと導く養育係」(ガラテヤ書3章24節)だと述べています。それは、私たちに自分の罪を自覚させてくれるからです。
命は神から与えられたものであり、神から離れた人間は、死に、滅びる存在となってしまった。神は善なるお方なので、悪は必ず滅ばざるを得ないからです。しかし、そのような私たちをなんとか救おうとして、神は、御子イエス・キリストをこの世に派遣された。キリストはすべての人の罪を背負って十字架につき、私たちの身代わりとなってくださった。私たちの罪に対する罰は、イエス・キリストが代わりに受けてくださった。そして神はイエス・キリストを復活させることによって死を滅ぼし、永遠の命への道を開いてくださいました。神のイエス・キリストを通した救いを受け入れることで、神に再び「良し」と言われる。そのことが信仰義認です。
これは、「イエスを救い主と信じるという私たちの行為によって救われる」のではなく、「イエスが救ってくださったということを信じる」のだ、という点に注意してください。
私たちの罪はすでに、イエス・キリストの十字架によって赦された。それは私たちの功績によるものではなく、神が私たちを愛してくださっているという一方的な神の愛、恵みによるものです。恵みは太陽のように、雨のように、すべての人に与えられています。だから、ユダヤ人であろうと、ギリシア人であろうと、どんな人であろうと、神の下では皆同じであり、誰も自分自身を誇ることは出来ないのです。そのことを教えているパウロの手紙を読んでいると、頼むからみんな仲良くしてくれ、というメッセージが聞こえてくる気がします。
以前、「勝ち組」・「負け組」という言葉が流行りました。私たち人間の住む社会は、功績主義・能力主義で、競争することを小さなころから強いられます。富や名誉や権力を持つことが良いことであり、そうでない人には価値が無いかのようです。しかし、神の国ではそうではありません。どんな人も、神の目には「値高く、尊」い(イザヤ書43章3節)のです。
この言葉は旧約聖書のイザヤ書からの引用です。イスラエルについて語られている箇所であり、文脈からして間違った使い方ではないかと思われる方もおられるかもしれません。確かに、聖書の文脈・書かれた背景は重要で、聖書のみ言葉は慎重に扱うべきだということには私も同意します。アメリカなどの奴隷制度や十字軍の遠征のように、私たち人間は、聖書の言葉を自分の都合の良いように勝手に解釈し、他者を傷つけてきた歴史があるからです。このことは「互いに愛し合いなさい」、「殺してはならない」という重要な神の御命令に反しています。ですから、注意は必要ですが、同時に、私たちは解釈を通してでしか神のみ言葉を受け止められないという自己の限界も知るべきだと思います。
時々、「聖書のみ言葉を勝手に解釈してはならない。字義通り受け止めなくてはならない」と言う人がいますが、そんなことは不可能です。今日と聖書の書かれた時代では社会も文化も価値観も大きく異なります。その当時のことを私たちは推測することは出来ますが、完全に理解することは出来ません。また、聖書は翻訳されて受け継がれてきており、翻訳には訳者やその時代の価値観が反映されます。そしてなにより、私たち人間は不完全な存在であり、誰も、自分というフィルターを通してでしか、聖書も、そして世界や他者も理解することは出来ません。そのように人間の限界をわきまえつつ、慎重に、時に間違えながらも、自分と隣人は違う人間だと認め合い、互いに歩み寄りながら、共に生きることが、「互いに愛し合う」ことなのだと思います。
少し話がずれましたが、そのように自分の限界を知りつつも、聖書の言葉を文脈を越え、決して字義通りではなく、再解釈する方法は「ミドラッシュ」と呼ばれ、ユダヤ教の伝統的な聖書理解の方法の一つです。先ほど私がイザヤ書から、文脈を越えて引用したのも、ミドラッシュ的な方法の一つと言えるでしょう。私たちの主イエス・キリストも、そしてパウロも、このミドラッシュ的な方法をよく用いて、教えています。
今日の聖書箇所で、「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない」、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない」、「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」という言葉が旧約聖書の申命記30章から要約して引用されています。もとの申命記では、
わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではない から、「だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、「だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが」と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。(申命記30章11~14章)
となっており、律法を守り行うことを肯定する意味で使われていますが、パウロは、イエス・キリストの救いを信じることを教えるために用いています。では、これは間違いなのか。そうではありません。ユダヤ教の教えを、神の子、イエス・キリストの愛を通して再解釈し、受する入れることがキリスト教信仰であり、私たちの信仰なのだと思います。
キリストは天から来られ、そして再び天に昇られた。イエス・キリストは十字架の死と復活を成し遂げ、すべての人へ、救いの道を開かれた。「だれが天に上るか」、「だれが天国に行くのか」と言うことは、キリストの復活と、救いの業を否定することになります。
また、水や海は死を表すので、申命記の「海のかなた」は、「底なしの淵」、つまり死の世界を表しています。キリストは十字架によって死なれ、死の世界・陰府へ下られた。死の世界にも神が来て解放してくださった。神の世界の及ばないところはもうどこにもない。「誰が底なしの淵に下るか」ということは、キリストの死と、死からの救いを否定することになります。
神は、パウロを通して、「主を信じる者は、だれも失望することがない」、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」ことを私たちに教えてくださっています。
神はイエス・キリストを通して私たちを救ってくださった。その救いは全ての人に向けられている。もう大丈夫、安心していいんだ。その喜ばしい良い知らせが福音です。その喜びを分かち合い、イエス・キリストのみ言葉に従って生きて行くことができますように。
