22 偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。
23 御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています。
24 初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。
25 これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です。
26 以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。
27 しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。
28 さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい。そうすれば、御子の現れるとき、確信を持つことができ、御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません。
29 あなたがたは、御子が正しい方だと知っているなら、義を行う者も皆、神から生まれていることが分かるはずです。
<説教> 「初めから聞いていたこと」
今日は花の日・こどもの日の礼拝です。これは、今から150年ほど前にアメリカの教会で、子どもたちのための特別な礼拝を行ったことが起源なんだそうです。さまざまな花が咲き始めるこの季節に、花も人も神さまに造られ愛されていることを感謝します。日本でも明治時代に伝わり、「花の日」は俳句の夏の季語にもなっているんだとか。キリスト教主義学校では、子どもたちが花を持ち寄り、礼拝後に老人ホームや病院などに花を持っていくことが行われることも。今回は施設に入居されていたり、病院や自宅で療養しておられる方へ宛てて、メッセージカードを用意しました。宜しければお帰りにメッセージをお寄せいただければ幸いです。子どもたち、そして子どもたちを守り育む、こども園の教職員の皆さまに祝福がありますように。
さて、今日の聖書箇所はヨハネの手紙から選ばれています。ヨハネによる福音書と同じ著者か、もしくはその弟子が書いたものだと考えられています。12使徒のヨハネではないかもしれませんが、今日はイエスの弟子のヨハネと言う人が書いたとして、読んでいきます。間違った教えを説く人たちに騙されないように注意し、初めから聞いていた教えについて再確認させている手紙です。
では、当時言われていた間違った教えとは何だったのでしょうか。今日にも共通しますが、イエスをメシア・救い主・キリストではない、と否定する者が挙げられています。すべての人の罪を背負い、十字架で死に、そして蘇らせられたナザレのイエスこそが救い主であり、イエス以外に救い主はいない。それがキリスト教です。
しかし、間違った教えを説く人々は、イエスがメシア・救い主ではないと言う。今日のキリスト教系カルトで、「私たちの教祖こそが実は再臨のキリストだ」、もしくは「約束された聖霊だ」と言うものがあります。イエスは十字架で死んだのだから、救いに失敗したのだ。だから、自分たちの教祖が救いに来たのだ、というのです。
確かにイエスは十字架で確かに死なれた。それは私たち人間の目には救いに失敗したように見えるかもしれません。しかし、それは神の御計画であり、神は約束通りイエスを復活させてくださいました。イエスによって救いは成し遂げられた。私たちはイエス・キリストによって救われた!それが「福音」、良い知らせです。イエス・キリストの十字架の他に、救いに付け加えるものは何もありません。神のすべての人への愛、御子イエス・キリストの十字架の死と復活によって、すべての人に救いが開かれたのです。
イエスは神の子であり、勝手にこの世に来られたのではありません。すべてはこの世界をお造りになった神の、私たち、すべての人たちを救いたいというご意思によるものです。
「御子を認めない者はだれも、御父に結ばれていません。御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています」
御子イエスと御父である神は一つであり、「イエスは神の子、我が救い主」であると信じることで、私たちも神とイエスの親子関係の中に入れて貰い、神がいつも共に居てくださるようになる。それが「救い」と呼ばれるものなのです。ですから、御子イエスを認めないことは、神をも拒むことになる。パウロによれば、『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えない』(Ⅰコリント12章3節)のですから、イエスを救い主だと認めるとき、そこには聖霊が働いていて、神は私たちと一緒に居てくださるのです。
ものすごく嚙み砕いて言うと、他の宗教ならいざ知らず、キリスト教を名乗りながら、イエス・キリストは救い主ではないとか、イエス・キリスト以外に救い主がいるとか、うちの教祖が実は再臨のイエス・キリストだとかいう団体があれば、「あ、カルトですね」と分かるということです。
この手紙の著者、ヨハネは、「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です」と言います。
初めからから聞いていたこと。それは神の言、イエス・キリストについて。十字架で死なれた、あのナザレのイエスこそが、私たちのメシア・救い主・キリストだということです。イエスは「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われました。「福音」とは良い知らせ、あなたは神に救われた!ということ。「悔い改め」とは視点を変えること。自分も含むこの世界の造り主である神の下に立ち返り、神に良心を願い求め、自分自身ではなく、愛である神(Ⅰヨハネ4章7節)を中心にして、神に従って生きようとすることです。
イエス・キリストは言われました。
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書15章12節)
ヨハネは言います。
「互いに愛し合うこと、これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです」(Ⅰヨハネ3章11節)
時々、教会で隣人愛について語られると、「神の愛はヒューマニズムではない(※人間中心主義と人道主義を混同している)」とか「博愛主義ではない」とか、「まず神を愛せ」とか言う声を聞きます。しかし、神を愛することとはどういうことでしょうか。ヨハネは言います。
「神を愛するとは、神の掟を守ること」(Ⅰヨハネ5章3節)
「その掟(神の掟)とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(Ⅰヨハネ3章24節)
ビクトール・ユゴーの小説「レ・ミゼラブル」のミュージカル版では「他者を愛することは、神のみ顔を仰ぐこと“To love another person is to see the face of God”」、と歌われます。
神は霊であり、人間の目には見えません。見えない神をどうやって愛することができるのでしょう。それは他者を愛することによってです。
やはり、「愛」なのです。教会が隣人愛を語らないならば、それはイエスをも愛していません。イエスは愛を語りました。そして、神に従い、愛に生きました。そして救いを完成させました。そして終わりの時に帰って来て、愛に満ちた神の国を実現してくださいます。
「終わりの時」とは終末・世の終わりであると同時に、悪の終わりの時です。だから悪は、悪あがきをします。キリスト教系のカルトは、教祖が自分こそが本当のメシアだと偽ります。キリストは失敗したのだ、自分こそが再臨のキリストだ、地獄に行きたくなければ自分を信じろと。
イエス・キリストの十字架の死と復活、罪の赦し、神の愛や恵み、憐みを否定し、隣人愛を否定するものは反キリストです。キリストは隔ての壁を打ち壊したのに、反キリストは新たに壁を作り、敵意と分断を煽ります。神ではないものを絶対的な価値あるものとしようとします。これが反キリスト、キリストの偽物です。彼らは福音ではなく、滅びを宣言し、恐怖によって人を支配しようし、愛である神から私たちを引き離そうとするのです。
「初めから聞いていたこと」を心にとどめなさい。それは、イエスがキリストであること。神が私たちを愛し、イエス・キリストを通して私たちを赦し、神の子としてくださったこと。だから、神を愛し、主が私たちを愛し赦してくださったように、私たちも互いに愛し赦し合うことです。
御子から注がれた油、これはおそらく聖霊のことだと考えられています。古代の教会では洗礼の後に、オリーブ油を塗られていました。パウロは、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であると語っています(ガラテヤ5章22~23節)。聖霊は、愛によって互いに仕え、「隣人を自分のように愛する」、ことへと導いてくださいます。
分断や恐怖や憎悪、他者を裁くこと、他者を道具のように利用すること、他者の上に立とうとすること等、は聖霊の実ではありません。神は愛であり、愛があるところに、神は共に居られるからです(トルストイ、「靴屋のマルチン」)。
「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。
愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。
愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。
神は、独り子を世にお遣わしになりました。
その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。
ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、
わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。
愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。
いまだかつて神を見た者はいません。
わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、
神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(Ⅰヨハネ4章7~12節)
「愛」ばかりで気恥ずかしい、「愛」ってとっても難しいじゃないか!そう思われるかもしれません。では、「愛」を「大切」に置き換えてみてはどうでしょう。昔はそのように訳されていた時もあったそうです。
神は私たちを大切に思っておられる。そして、私たちが互いに大切にしあうことを望んでおられる。神が私たちを大切に思ってらっしゃるから、神を大切にする私たちも、互いに大切にし合おう。それが、私たちが「初めから聞いていた教え」です。
今日は花の日・こどもの日です。まずは身近なところから、愛してるよ、大切にしているよと伝えられたら素敵です。神さまが働いてくださり、神さまの愛が伝わりますように。
