2024年9月22日 聖霊降臨節第19主日 ローマの信徒への手紙 11章33~36節

33 ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。

34 「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。

  だれが主の相談相手であっただろうか。

35 だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか。」

36すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。

 栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

目次

<説教> 「主の心」

先週は召天者記念礼拝と墓前礼拝でした。今年も皆さまとともに礼拝を守れたことを感謝いたします。また、昨日はしののめピースでした。皆、一生懸命頑張っていて、素敵でした。

さて、今日はローマの信徒への手紙です。パウロの手紙はイエス・キリストの福音についての教えと、生活の中での実践の勧めから成っていると言われます。このローマの信徒への手紙もそのようになっており、今日の箇所はイエス・キリストの福音の教えの最後の部分で、この後には実践の勧めが続いています。

パウロと言うと、いわゆる「信仰義認」について教えた人として知られています。

善い行いをするから救われるのではなく、イエス・キリストによって救われ、神さまのものとされたのだから、神さまに従って善いことをしようという教えです。

時に、信仰があるから、それでいいと言うようなことを聞きますが、パウロはそのようなことは言っていません。イエスが教えてくださったように、互いに愛し合うことを教えています。

信仰はゴールではなく、キリストと共に生きる新しい人生のスタートなのです。

では、なぜパウロは信仰によってのみ!を強調したのでしょうか。それは、誰も自分を誇ることがないためです。

パウロが活躍した当時、教会の中でしばしば争いがあり、それはこのローマの教会でも同じでした。

キリスト教はユダヤ教から始まりました。イエス・キリストも、12弟子も、この手紙を書いたパウロもユダヤ人であり、ユダヤ教徒です。

ユダヤ教では、旧約聖書を通して神から約束された救い主がいつかやって来て、自分たちを救ってくれると信じていました。

キリスト教では、イエス・キリストこそが、その約束された救い主だと信じています。

その意味で、キリスト教はユダヤ教から分裂したのではなく、自分たちこそが本当のユダヤ教だと信じているのです。

ですから、キリスト教はユダヤ人キリスト者たちから始まったと言えます。しかし、教会が成長するにつれて、私たちのようなユダヤ人ではない異邦人キリスト者が増えていきました。それはこのローマの教会も例外ではありませんでした。

ユダヤ人キリスト者の多くは、ユダヤ人として旧来の教え、律法も守っていました。

しかし、異邦人キリスト者はそうではありません。やがて、そうした考えの違いから、教会のなかでユダヤ人キリスト者と、異邦人キリスト者との間で対立が起こるようになったようです。

パウロはその両者を和解させるために、異邦人にも、ユダヤ人にも、すべての人に罪があるということと、人はイエス・キリストへの信仰によってのみ、救われることを教えたのです。

それは、神は人を分け隔てなさらないことを教えるためでした。

「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」(ロマ1:16)

「すべて悪を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、苦しみと悩みが下り、すべて善を行う者には、ユダヤ人はもとよりギリシア人にも、栄光と誉れと平和が与えられます。神は人を分け隔てなさいません」(ロマ2:9~11)

「わたしたち(ユダヤ人)には優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」(ロマ3:9)

「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」

(ロマ3:21~24)

「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです」(ロマ3:29~30)

『聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです』(ロマ10:11~13)

いかがでしょう、ローマの信徒への手紙一つ取ってみても、こんなにもパウロは、人は神の前に同じであることを説いています。

人は神の前で等しく罪人であり、等しく愛されている。

イエス・キリストは罪人である私たちすべての人の為に死んでくださり、復活してくださった。

私たちは皆、赦された罪人です。

赦された罪人。私はこの言葉が大好きです。肩の荷が、すっと軽くなる、そんな気がするのです。

私が牧師になるという道を与えられる前、私は役者をしていました。

30歳手前で、フランスの演劇学校で学ぶ機会がありました。その時の経験を少しお話いたします。

演劇学校はとても楽しくも、厳しいところでした。

毎週課題を出され、それをもとに発表するのですが、先生が太鼓をもって座っており、面白くないと太鼓をたたくのです。すると、例え発表の途中でも終了して退場しなければなりません。

ある時、まあ大抵の場合はそうだったのですが、何をやっても上手くいかないと言う時がありました。一体どうしたらいいんだろう。私はすっかり困り果てていました。そんな時、ある友だちがアドヴァイスをくれました。それは、「できの悪い子でもいいじゃない。『僕、馬鹿だもん』とつぶやいてから舞台に出てみれば?」ということでした。

当時の私は、上手くやろう、上手くやろうとそればかりに気が行っていて、楽しむ心を忘れていた。そのことを教えてくれた一言でした。余計なことは考えず、大切なのは、今この瞬間。

いいんだ、上手く出来なくても。残念ながら、僕は下手だ。面白くない。でも、それでも舞台が好き。「僕、馬鹿だから」。舞台裏でそうつぶやくと、ふっと心が軽くなった気がしました。そして、なんだか「ふふっ」っと楽しくなりました。

それでいきなり上手くなるわけではないけれど、相変わらず失敗は怖いけれど、それでも、舞台に立つのがまた、楽しくなりました。

悪い子だっていいじゃない。罪人だっていいじゃない。それが僕なんだから。

それでも、そんな僕でも、好きだよ、大切だよって言ってくださるのが、私たちの神さまなんだって、イエスさまは教えてくださっています。

もしも、私たちに罪がないなら、イエス・キリストは死ななくても済んだでしょう。

でも、イエス・キリストは死ななければならなかった。それくらい、私たち人間の罪は深い。

それでも、その私たちの身代わりになってくださるくらい、神さまは私たちを愛している。

そう思えると、なんだか心がふっと、軽くなる気がしませんか。

神さまは私たちを縛って罰するためではなく、私たちを罪から解放してくださる。

そのためにイエス・キリストは世に来られた。それが、福音。良い知らせです。

それは、なにか私たちが立派だからではありません。清かったり、正しかったりするからではありません。反対に、自分ではどうしようもないから、自分では救われないから、イエス・キリストが来られたのです。それを知れば、自分を誇ることなんてできません。

はじめに、信仰義認と言う言葉を紹介しました。

これは、時に「信じるものは救われる」と説明されることがあるように思います。

旧約聖書の律法を守るから救われるのではなく、イエス・キリストを信じることで救われるのだと。

確かにそうです。でも、「信じるものは救われる」という説明の仕方だと、なんだかしっくりきません。信仰義認は行為義認と対比されます。しかし、「善い行いをするから救われる」、「信じるから救われる」これはどちらも行為義認であり、条件付きの救いです。救いは何かの対価として与えられるのでしょうか。

そうではありません。キリスト教の「救い」とは神からの一方的な愛、恵みです。

パウロは言っています。「だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」

主に何かを与えることで、その対価として救いを受けることが出来るのであれば、それは恵みではなく商売です。もしそうなら、私たちは神の救いが気に入らなければ、文句をつけたり、返品しようとさえするでしょう。それでは、私たちは自分で自分を神と対等か、それ以上のものにしてしまうことになります。

しかし、大前提として、そもそもこの世界は神さまがお造りになった、神さまのものです。

私たちの命も、財産も、全て、この地上で生きている一時の間、神さまからお借りしているものです。そのような私たちに、何か神さまの報いを貰えるようなものを対価として出せるでしょうか。

すべては神さまのもので、自分のものなんて何一つないのに。

私が22歳の時、役者になるために上京しました。その時、東京でお世話になった元・映画プロデューサーの方がいます。その人に、こんなことを聞かれました。

「君は両親に恩返ししたいと思ってる?」「はい、成功して恩返しできたらと思います」

「そんなこと思わなくてもいいよ。両親にしてもらったことは返せるような恩じゃないんだから」

「きっと君の両親も恩返ししてほしいなんて思ってないよ。それよりも君が充実して生きている方が嬉しいと思うよ」

詳細は忘れましたが、そんなことを言われました。それは、きっと神さまも同じだと思います。

神さまが望んでおられるのは、私たちに恩を返してほしいのではなくて、私たち人間が、神の子どもたちとして、互いに愛し合って、幸せに生きることだと思うのです。

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。

谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。

曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」

(ルカ福音書3章4~6節)

人が決めた違いなんて、神の目には些細なもの。

ユダヤ人だ、ギリシア人だ、日本人だ、何人だ、何民族だ、何教徒だ…。そういった些細なことで自分が何か偉くなったような気がして、他者を見下す。こんなバカバカしいことはありません。神さまの前では皆、平坦にされるのです。

神さまの心は、私たちが誰かよりも偉くなるのではなく、お互いに仕え合うことを望んでおられる。

「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(ロマ11:32)

神はすべての人を憐み、ご自分の子として招いてくださっている。

その神に応えて生きて行けますように。

ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。

だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。 栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

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