10月20日 聖霊降臨節第23主日 フィリピの信徒への手紙 3章7~21節

7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。

8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、

9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。

10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、 11何とかして死者の中からの復活に達したいのです。

12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。

13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、

14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。

16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。

19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。

21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

目次

<説教>「すでに、と未だの間で」 

今日の手紙は、パウロからフィリピという都市にいるキリスト者たちに宛てて書かれた手紙です。

フィリピは、現在のギリシャ北部・マケドニアにある都市で、パウロたちの宣教活動によって信仰共同体が出来ました。この手紙が書かれたとき、パウロはどこかの都市の獄中にいました。そのことを心配するフィリピの人たちに感謝と励ましを与えるために書かれた手紙です。困難な状況の中にいるにもかかわらず、何度も「喜び」と言う言葉が出てくるので、「喜びの手紙」と呼ばれているそうです。

先日もこの手紙から話しました。その時は主に「喜び」から見てきましたが、今回はパウロからの忠告・勧告の部分です。今日の少し前のところで、パウロは「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」(フィリピ3章2節)と言っています。

パウロは1章のところで、獄中にいるパウロを苦しめるためにキリストを宣べ伝える者がいるということを語っています。しかし、動機がどうあれ、キリストが宣べ伝えられているのだから喜んでいると言っていました。

その人たちとは別に、割礼を持つよこしまな働き手がおり、その人たちを警告するようにと言うのです。これは、ユダヤ教の宣教者か、もしくはキリスト教徒になったけれどユダヤ教の風習も守り、それを他の人にも強制しようとした人々のことを指していると考えられます。

彼らは旧約聖書において神との契約の印とされる割礼を受けたことを誇り、律法を守っていることを誇っていたようです。パウロは彼らを「犬ども」と呼んでいます。今日の私たちからすると、酷い悪口だなと思いますが、これはおそらく、批判されている人々に対する皮肉なのでしょう。

ユダヤ教において、豚や犬は汚れた生き物として軽蔑されていました。そのことから、律法を守らない人々や異邦人のことを「犬ども」と呼んで軽蔑していたようです(詩編22編21節)。そのように割礼を受けていない人々を馬鹿にする人に対して、彼らが使う悪口を返して「犬ども」と言ったのだと思います。

彼らは、自分たちは神に従う神の民だと自分を誇り、他の人々を見下していました。そのようなユダヤ教、もしくはユダヤ教の風習を守るキリスト者の宣教師が、フィリピの教会に来て、混乱を起こしていたようです。フィリピにはユダヤ人が少なく、フィリピの教会には割礼を受けていない人の方が多かったことでしょう。

律法を守れ、割礼を受けろ、そうでないお前たちは犬のようだと言う人々に対して、そういう人の方が犬のようだとパウロはいうのです。彼らは切り傷にすきない割礼を身に受けていることを誇り、自分たちは神の民だと誇っているけれど、割礼を受けていないフィリピの教会の人々の方が真の割礼を受けた人だ。神の霊によって礼拝し、自分ではなくキリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないのだから。

とはいえ、私たちは目に見えないものではなく、見えるものに心を惹かれてしまうことがあるのではないでしょうか。フィリピの人々も、「自分たちは律法に従って割礼を受けている。割礼を受けないと本物ではない」と言うような言葉に心が惑わされてしまったのかもしれません。自分たちは神に選ばれたユダヤ人だ。あなたたちはそうではないが、割礼を受けて律法を守れば、神に選ばれたユダヤ人になれる。そのような誘惑に心が揺れることもあったのかもしれません。

しかしパウロは自分だってそうだ、いやそれ以上にユダヤ人だと言います。

「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(フィリピ3章5~6節)

ベニヤミン族はイエスラエルの12部族の一つで、イスラエルの初代王サウルや、ペルシャ王の妃となってユダヤ人を虐殺から救ったエルテルもベニヤミンの出身です。今日、ユダヤ人と言うのは他民族から改宗してユダヤ教徒になった人たちのことも含んでいますが、パウロは血統の上でもユダヤ人で、ヘブライ語を母語とし、ファリサイ派の一員として律法を守り、教会を迫害するほど熱心なユダヤ教徒でした。ユダヤ人であることを誇ろうと思えば、他の人以上に、神に選ばれたユダヤ人であることを誇ることができる人でした。

しかし、復活したイエス・キリストに出会うという経験を通して、今まで自分にとって有利であると思っていたユダヤ人であるという誇りの全てが無意味なもの、むしろマイナスなもの、損失であるとさえ思えるようになった。いや、その他すべてのものがそうなったのだとパウロは言います。

パウロはすべてを失ったと言います。主イエス・キリストを知り、そのあまりのすばらしさに、いままで持っていた自慢できること、有利なこと、人の上に立っていると思えるようなこと、そのすべてが塵あくた・取るに足りないもののようになった。それまでの誇りを捨て、キリストの福音を伝えることで、彼はこれまでの地位も関係も失ったことでしょう。ユダヤ人としての誇りも、尊敬も、人間関係も、すべてを失ってなお、それよりも素晴らしいイエス・キリストに、パウロは出会ってしまった。そのことを彼は、キリストに捕らえられた、と表現しています。

キリストにおいては、自分を誇る余地はありません。自分が律法を守ることで、自分を義とするのではなく、キリストへの信仰・信頼によって神から与えられる義があるというのです。義と言うのは、神によって良しとされることです。罪ある私たち人間が、罪赦されて、神との関係が回復されて、神の子とされ、永遠の命が約束されること。このことを、キリスト教では「救い」と呼んでいます。

それまでは神から与えられた律法を守ることがユダヤ人、神の民であるということでした。しかし、ただ文字に書かれ、口で伝えられた律法の教えを守るだけでは、本当に守ったことにはなりません。

律法と預言者を通して神が言われたことは、神を愛し、隣人を自分のように愛すると言うことです。

互いに愛し合うようにということです。そのことを抜かしては、本当に律法を守ったことにはならないのです。律法を守っていると言いながら、神から与えられたにすぎない、自分で獲得したわけでもない、律法やユダヤ人であることを誇り、他者を見下し、他者を踏みにじり、驕り高ぶるなら、それは律法を守っていないのと同じです。

このことは、キリスト者であっても同じだと思います。私も以前、自分がキリスト教徒の家に生まれたことを誇りに思っていました。そして他者を見下していました。本当に、何も理解していない、傲慢で、愚かなことだったと思います。残念ながら、この誘惑はとても強いものです。歴史の中でも、そして今日でも、ユダヤ人であること、キリスト教徒であること、白人であること、日本人であることなど、何かの属性を誇り、他者を踏みにじる行為が行われています。そのような愛のない様は、愛である神から遠く離れてしまっていると言わざるを得ません。自分自身を誇ることでは、神に近づき、救われることなど決してないのです。

そのような私たちを救うために、イエス・キリストは来られました。自分の誇りでは私たちは救われない。私たちを救うのはただ、神の愛のみ。それは、誰も自分を誇って、他者を踏みにじることがないようになるためです。神の前では皆同じ。そのことを知り、互いに愛し合えるようになるためです。

神の義、救いは神から、イエス・キリストを通して、すべての人に与えられました。主イエスは十字架につけられ、すべての人の身代わりとなり、私たちの罪を赦してくださいました。それだけでなく、復活し、私たちに永遠の命を約束してくださいました。それは、私たちが立派だったからもなにか特別だからでもなく、ただ、神さまが私たちを愛しておられるからです。

親が子どもを愛するとき、子どもが立派だから、何か特別だから愛するのでしょうか。きっとそうではないでしょう。親は子が自分の子だから愛するのです。すべての人は、神に造られた神の子です。神は子である私たちを、それだけで愛してくださるのです。

イエス・キリストの十字架の死と復活はただ一度きり。主の救いはすでにすべての人に開かれています。信じるという自らの行為によって救われるのではなく、イエス・キリストによって救われたことを信じる。そして、救われたものとして、主に従い、互いに愛し合って生きて行こう。それがパウロの教えた、私たちの信仰です。

「イエス・キリストの救いだけでは不完全だ、割礼を受けろ、律法を守れ!」

そんなものは、いりません。私たちにはキリストの十字架と復活だけで十分です。神の愛と、互いへの愛だけで十分です。

一方で、私たちは目標に向かって走ることを勧められています。イエス・キリストよって救われたのだ、自由になったから何もしなくてもいいのだ。もう完全に救われたのだから、自分の好き勝手に生きればいいのだ、と主張する人々がいたようです。

そうではないのだ。私も、キリストの救いを完全に得た、捕らえたわけではなく、完全なものになるべく努めているのだ、目標に向けて走っているのだ、その私に倣って欲しいとパウロは言います。

イエスの救いはすでに始まっている。しかし、完成しているわけではない。究極的な救いは、この世界の終わりの時、再び帰って来られるイエス・キリストによって完成させられる。

「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」

私たちは再び帰って来られるイエスを待ちながら、「互いに愛し合いなさい」というイエスの命に

従い、それぞれに与えられた人生を走っているのです。そのような私たちの状態を、ある神学者は「すでにと、いまだの間」にあると言ったそうです。また、「急ぎつつ、待ちつつ」とも言われます。なかなか言い得て妙だなと思います。

「すでにと、いまだ」の間で、「急ぎつつ、待ちつつ」、今週も主に背中を押されながら、走っていきましょう。

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