そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。
イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」
二人が、「できます」と言うと、イエスは言われた。
「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
<説教>「あなたがたの間では」
イエス・キリストが受難を受けるために、弟子たちとともにエルサレムへと向かう途上の出来事です。イエスさまはこれからご自分が受けることになる受難と死、そして復活について12弟子たちに教えておられました。今日の聖書箇所の直前では、ご自分が十字架につけられ、そして三日目に復活することをはっきりと語っておられました。
しかし、それでもなお、弟子たちはイエスさまが語られたことを理解していませんでした。
12弟子の内、ゼベダイの二人の息子、ヤコブとヨハネが母親と共にイエスさまのもとへとやってきます。ヤコブとヨハネの兄弟はもともとガリラヤ湖の漁師で、イエスさまが宣教を開始された初期からつき従った弟子たちです。イエス様から「ボアネルゲス(雷の子ら)」というあだ名を貰うくらい近しい関係でした(マルコ福音書3章17節)。
先週の礼拝の聖書箇所は「山上の変容」と呼ばれる個所でしたが、そこでも一番弟子のペトロともにイエスさまに従って山に登ったのはこの兄弟です。イエスさまの側近と言ってもいいような弟子たちです。しかし、先週の箇所でペトロが無理解を示したように、今日のところではこの二人の弟子たちも無理解を示すのです。
ここで二人の息子のお母さんが出てくるのが面白いな、と思います。聖書が書かれた当時は、家父長制の社会・男尊女卑の社会だったので、聖書を読んでいても女性よりも男性の名前の方が多く出てくるのですが、それでもあちこちに女性の名前が記されています。そのことから、イエスさまが宣教を始められた初期から女性の弟子たちが活躍していたことが分かります。男性も女性も共にイエスさまに従った、それが教会の始まりです。そのような姿を「旅する共同体」と呼んだ人がいます。イエス・キリストに従う人生の旅を共にする群れ、それが教会です。
さて、ペトロとヤコブとお母さん。彼らは何かを願うためにイエスさまの前にひれ伏しました。
一体なにを叶えて貰おうと思ったのでしょうか。イエスさまが、「何が望みか」と言われると、お母さんが口を開きます。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」
イエス・キリストは旧約聖書で神さまから約束された救い主。彼らユダヤ人にとって救い主とは武力で自分たちを外国の支配から解放し、伝説的な王、ダビデ王のようにユダヤ人の王として自分たちを支配してくれる人だと信じていました。だから、彼らの望みはイエスさまがユダヤ人の王として即位された時に、右大臣と左大臣のように、王に次ぐ高い地位を与えてくださいと望んだのです。
ペトロが叱られた後だから、自分たちにも出世するチャンスだ!そう思ったのかもしれませんね。
息子のこと、それも漁師をしていたような青年の息子の代わりにお母さんが願う。想像してみると、ちょっと情けないような風景です。今日でもユダヤ人の母親は教育熱心だと言う話を聞いたことがありますが、子を愛するあまり、なんとか自分の息子とたちを引き立ててほしいと思ったのでしょうか。
もしくは、この二人の息子の願望だったけれど、自分たちでも俗っぽい望みと分かっていたから、恥ずかしくて言い出せなくて、代わりにお母さんに言ってもらったのでしょうか。12弟子の中の他の弟子たちは、このことを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てたと書いてありますから、後者のような気がします。
イエスさまは彼らの願いを聞いて、お答えになりました。
「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」
旧約聖書ではしばしば神の憤りの杯、怒りの杯という表現が出てきます(イザヤ51:17、エゼキエル23:31)。ここでイエスさまが言われた杯とは、すべての人の身代わりとなられ、死んでいかれる受難のことでしょう。他者のために苦しみの道を歩むイエス・キリストについてくることができるかと聞かれているのです。ヤコブとヨハネは、「できます」と答えました。イエスさまの意図がよく分かっていないからだとは思いますが、はっきりと出来ると答えた二人。私なら躊躇すると思うのですが、二人ははっきり答えた。イエスさまに雷の子と言われ愛された姿が浮かびます。
それを聞いて、イエスは言われました。
「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
イエスさまは苦笑しつつも、そのような二人のことを好ましく思われていたのではないかなと思います。ペトロがイエスさまを裏切って逃げた後、復活したイエスさまに出会って変えられ、迫害の中でも教会のリーダーとなって行ったように、この二人も同じく変えられて、教会のリーダーとなって行きます。兄のヤコブは、弟子たちの中で最も最初に殉教した人でしたし、弟のヨハネは殉教はしませんでしたが、生涯最後まで宣教者として活躍しました。
しかし、イエスさまの右と左に誰が座るのか、それは神さまがお決めになることだとイエスさまは言われました。それでは一体神さまは誰をイエスさまの左右に座らせるのでしょうか。この二人はイエスさまの左右に座れたのでしょうか。
この後の聖書を読んでいくと、そうではないことが分かります。イエスさまが「ユダヤ人の王」としてその玉座の代わりに十字架につけられた時、その左右で十字架につけられたのは名もなき罪人たちでした。それはイエスさまが私たち罪人の仲間となり、私たちを救ってくださるためでした。
神さまの思いは私たち人間の思いをはるかに越えておられると思わされます。
さて、今日の箇所ではヤコブとヨハネの持っていた身勝手さが見えましたが、それは何も彼らだけが悪いのではありません。彼らに腹を立てた他の10人の弟子たちも、同じようにイエスさまのもとで出世したいと思っていたことでしょう。この人に従えば、見返りが貰えるかもしれない。それは私たち人間社会の常識からすれば、ごくごく当たり前の価値観です。イエスさまの12弟子たちも、私たちと変わらない、ごくごく普通の人間でした。そのことに私はほっとしますし、そしてそのような彼らが、復活したイエスさまに出会って変えられていったという事実に励まされます。
イエスさまはいがみ合う弟子たちを見て、彼らを呼び寄せて言われました。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
異邦人、神さまを信じない人々の間では、この世の「常識」の中では、支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、神さまを信じ、イエス・キリストを自分の救い主と信じ、イエス・キリストに従おうと思う、私たちの間では、そうであってはならない。
イエスさまは偉くなりたいと思ってはならないとは言われません。偉くなりたいと思う人は、他の人に仕える人になりなさい、いちばん上になりたいものは、皆の僕になりなさい、と言われるのです。私たちの中で最も偉い、いちばん上におられる神の子、イエスさまご自身が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように来られて模範を示されたのだから。
イエス・キリストに従う私たちの間では、皆が互いに仕え合う関係になれますように。
