2025年5月11日 復活節第4主日・母の日 ヨハネ福音書 11章17~27節

17さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。

18ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。

19マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。

20マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。

21マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。

22しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」

23イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、

24マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。

25イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

26生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

27マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

目次

<説教> 「イエスは復活であり、命である」

新しいローマ教皇が決ましたね。レオ14世と名乗るそうですが、名前の由来であるレオ13世は労働問題に関心を持ち、搾取を批判し、行き過ぎた資本主義に警告を鳴らした人だそうです。前教皇のフランシスコも貧しい人々や難民など、社会の中に弱い立場に置かれた人々に心を寄せた人でしたが、新たな教皇も南米で貧困や難民のために働いた方だそうで、前教皇の後を引き継ぐ良い方が選ばれたのではないでしょうか。主の祝福と導きがありますように。

また、今日は母の日です。いろいろな由来があるそうですが、日本ではアメリカの教会で始まった出来事が由来となっているようです。お母さま方、また天上におられるお母さま方、お疲れさまです。主よりのかえりみと祝福が豊かにありますように。

さて、今日の舞台はエルサレム近郊のベタニヤ村。ここにはマルタとマリアという姉妹と、その兄弟ラザロが住んでいました。彼らはイエス・キリストに愛された弟子であり友人でした。ベタニヤはエルサレムから約15スタディオン、約3㎞弱の距離にあります。イエスさまがエルサレムに来るときには、良く彼らのところに滞在していたようです。

今日の記事の前、イエスさまはエルサレムにいましたが、イエスさまが神の子であることを受け入れないユダヤ人たちに殺されそうになり、イエスさまと弟子たちはヨルダン川の東、洗礼者ヨハネが洗礼を授けていたところへ避難しました。

奇しくも、そこもベタニヤという場所でした(ヨハネ1章28節)。

マルタとマリアの姉妹、そして兄弟のラザロの住むベタニヤからは、徒歩で12時間あれば着ける距離のようで、当時であれば一日歩けば着く距離のようです。

そこへ、イエスさまと弟子たちのもとにマルタとマリアの使いのものが来て助けを求めます。

兄弟のラザロが病気で死にそうだと。イエスならきっと何とかしてくれるだろうという切実な願いです。しかし、イエスさまはその知らせを聞いても、そこになおも2日間滞在されました。

ラザロはイエスさまの「愛しておられる者」と書かれています。とてもイエスさまに可愛がられた弟子、仲の良い友人だったのでしょう。イエスさまであれば、放っておけば死んでしまうことは分かっていたはずです。それなのに、イエスさまは動きません。冷たくに見えますが、これには神さまのご計画がありました。ラザロは死ななければならなかったのです。

でもそれはラザロが何か悪いことをしたから、その罰でというわけではありません。そうではなく、死んだラザロをイエスさまが復活させて、神の栄光、そしてイエスさまの栄光が顕れるためであり、また、そのことを通して、イエスが神の子であり、私たちの救い主であることが分かるためでした。

神さまは、そして神の子であるイエスさまは命の支配者であり、死に打ち勝つ方だということを、私たちに教え、私たちがイエスさまを救い主として信じるようになるためでした。

さて、二日経って、イエスさまが姉妹の待つベタニヤに向かおうとしたとき、弟子たちは反対しました。つい先日、エルサレムでイエスさまに反対するユダヤ人たちに殺されそうになったからです。

それからそんなに日が経っていませんし、エルサレムの近くのベタニヤに向かうことは命の危険があります。弟子たちの反対はもっともなことでした。しかし、イエスさまの決意は変わりません。

自分の命をかけても一人の人の命を救おうとするイエスさまの姿は、後に十字架の上ですべての人の身代わりとなった姿に重なります。

イエスさまの決意を知り、弟子の一人、トマスも自分たちもイエスに従って行き、共に死のうと言って他の弟子たちを説得します。彼はイエスさまが死んで復活した時、その姿を見ないと信じないと言った人です。彼もイエスさまが十字架で死ぬまでは、一番弟子のペトロのように威勢のいい弟子だったのかもしれませんね。

さて、イエスさま一行が姉妹の待つ、べタニア村に着いた時、すでにラザロは死んで4日経っていました。エルサレム近郊のべタニアから、イエスさま一行のいたヨルダン川東岸のべタニアまで約一日の距離とすると、姉妹たちからの伝言を伝えに来た使者が出発したすぐ後に、ラザロは死んでしまっていたのでしょう。イエスさまは神の子であり、そのことを不思議な力で知っていたのだと思います。そしてイエスさまはもともと、ラザロを生き返らせる気でいました。

すでにラザロは死んでいるのだし、知らせが来てすぐに出発しても良さそうなものですが、イエスさまはあえて二日の時間を空けました。それはおそらく、ラザロの死後1日や2日では、彼が完全に死んだという証明にならなかったからだと思います。死んだと思われた人が、実は仮死状態、昏睡していただけで、少し時間を置いて息を吹き返すという例はしばしばあることらしく、墓に葬られてから意識を取り戻すということもあったと聞きます。今日の日本でも、死後24時間以内の火葬は禁じられています(「墓地、埋葬等に関する法律」第3条)。

だから、もし、イエスさまがすぐに向かっていたら、イエスさまがラザロを復活させても、それを見た人たちは必ずしも復活を信じることはなかったかもしれません(イエス・キリストも死後3日目に復活した。これはイエスさまが仮死状態だったのではなく、本当に死んでいたことを示す)。

さて、イエスさまが到着したと聞いて、姉のマルタはイエスさまを迎えに出ましたが、妹のマリアは部屋の中に座り、迎えに行きませんでした。彼女は兄弟を助けに来てくれなかったイエスさまに失望していたのかもしれません。あるいは、姉のマルタも同じ気持ちだっただろうと思います。しかし、マルタは一家の家長として気丈に振舞ったのでしょう。

マルタはイエスさまに、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言いました。これはきっと、座り込んでいたマリアも同じ気持ちだったでしょう。

イエスさまに対する恨み言。なぜ、どうして。私たちも苦しみ、悲しみ、困難に出会う時、同じように神さまに恨みごとを言いたくなることもあると思います。しかし、それでもマルタは諦めていませんでした。彼女は言葉を続けます。

「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」

私たち人間には神さまの御心は分からない。自分たちの望むようになるとは限らない。この世界は神さまのものであり、私たちは生かされているに過ぎないのだから。この世界の主人は神さまであり、私たちはその僕にすぎない。しかし、イエスさまは、きっと悪いようにはなさらない。どんなことも必ず良いことへと変えてくださる。その信頼がマルタにはあったのでしょう。

それを聞いてイエスさまが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言いました。 イエスさまはラザロの復活、死からの救い、解放を宣言されました。それに対して、マルタの答えは、当時のユダヤ人民衆の一般的な認識でした。彼らはこの世界が終わるとき、善いことをした人も、悪いことをした人も、みな復活させられ、神さまの前に立たされて、生前のそれぞれの行いに応じて裁きを受けると信じられていたのです(一方、サドカイ派と呼ばれる人々は、復活はないと信じていました)。

これに似た考えは世界中の色々な宗教で見られます。エジプトでも死者は生前の善悪により裁かれ、日本でも死後、閻魔大王の前で裁きを受けるということが広く受け入れられていました。

「神さまの裁き」と聞くと、恐ろしいような気がしますが、しかし一方で、このことはこの世で虐げられている人、不正義に苦しんでいる人、正しく生きようと望んでいる人にとっては救いの言葉でもあります。たとえ不正義、悪がこの世で権力を振るい、人々を虐げていても、それは一時のこと。どんな悪人も善人も、皆必ず死ぬ。どんな人も死から逃げ切ることは出来ません。

しかし、人間を越えた存在がおられ、死の先で、その生前の行いに応じて裁きと報いがあるとしたら…。もちろん、本当のところは分かりません。生きている人で、誰も死の先、神さまの領分を見た人はいません。だからこそ、誰にも嘘だとは言い切れない。分からないからこそ、怖いからこそ、身を正して生きようと思わせてくれます。自分で自分を律することのできない弱い私たち人間のために、掟や「裁き」があるのだと思います。

しかし、ここでイエスさまが語られたのは単に終わりの日の復活についてではありませんでした。

イエスさまはマルタに宣言し、問いかけます。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」

マルタは答えます。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

イエスさまは復活であり、命である。そしてイエスさまを信じる者は、死んでも生きる。イエスさまを信じる人も、いつかこの地上での生には終わりが来る。しかし、イエスさまは私たちを見捨てない。十字架で死なれた後、復活されたように、信じる私たちにも永遠の命をくださる。そのことはイエスさまが十字架にかかって復活された時に、すでに始まっている。私たちは永遠の命を見たことはないが、確かな約束としてすでに、与えられています。だから、私たちは死後の復活の先も恐れることはない。

愛する兄弟の死という苦しみ、悲しみの中でも、イエスさまを信頼し、イエスさまを神の子、メシア、救い主だと告白したマルタ。この後、イエスさまはラザロを復活させ、マルタとマリアの涙を拭ってくださいました。

私たちも、どんな困難な時でも、イエスさまは復活であり、命である、神さまは私たちを決して見捨てない、という希望と信頼をもって、歩めたらと思います。

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