2025年7月20日 聖霊降臨節第7主日 テモテへの手紙1 2章1~6節

そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです。

目次

<説教> 「すべての人々のために」

異邦人への使徒パウロから、小アジア(現在のトルコ西部)のエフェソにいた同労者であるテモテに宛てた手紙です。パウロは彼を「信仰によるまことの子」と呼び、信頼していました。

エフェソはパウロが足掛け2年近く滞在して宣教したところですが、異なった教えを説く人々が出てきたので、テモテを派遣して教会の指導者にしたようです。その彼に、パウロは手紙で励ましとアドバイスを送り、今日のところでは祈りについて教えています。

祈りは私たちの信仰の中心を占めるものです。誰に対して祈るのかが、信仰者としてのアイデンティティだと言えるでしょう。仏教徒ならば仏さまに、多神教であればその信じるところの神々に…。

では私たちは何者なのか、私たちはイエス・キリストを通して愛である神に祈る者です。

私たちの祈りは主に、神さまへの賛美と願いと執り成しと感謝からなっています。

私たちが祈る時、もちろん私たち自身のための願いを祈っていいのですが、それだけでなく、他の人たちのことも覚えて、すべての人のために、全世界のために祈ること、執り成して祈ることをパウロは教えています。なぜなら、神さまは唯一であり、すべての人の造り主であり、すべての人の神さまだからです。たとえその人が神さまを信じていなくても、違う宗教を信じていたとしても、神さまはその人にとっても神さまなのです。神さまは、すべての人が救われ、神さまの子として、お互いに大切にし合って生きることを望んでおられます。

メソジスト教会の祖、ジョン・ウェスレーは「世界はわが教区」と言ったそうですが、私たちの世界は繋がって関わりあって生きています。世界の全ては私たちと関りがあるのだと、自分の視点と関心を広げることの大切さを思わされます。

執り成すとは、イエス・キリストが私たちのためにしてくださっていることです。イエスさまは十字架につけられて殺されるとき、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ福音書23章34節)と祈ってくださいました。

プロテスタント教会では私たち信仰者一人ひとりも、神さまと人とに仕える祭司だといいます。

私たちも他者のために、他者が愛である神さまへ立ち帰ることを祈ることが教えられています。

すべての人のために祈ること。そのすべての人の中には、王たちや高官といった世の権力者たち、為政者たちも含まれています。ここであえて挙げられているのは、彼らが私たちの祈りの対象から最も外れやすい人たちだからかもしれません。

今日でも戦争や虐殺、格差や貧困、差別や分断などを引き起こす悪い為政者は多いですが、聖書が書かれた古代でもそうでした。いや、それ以上に、人権や民主主義や憲法という思想がなかった分、王や高官たちの権力は今よりも大きく、民衆は今以上に、その圧制に苦しむことが多かったでしょう。王たちや高官たちは民衆から搾取し、兵役や労務につかせ、戦争や略奪、奴隷にするなどの悪い行いをしていました。だから、自業自得とはいえ、王や高官たちはしばしば民衆に憎まれたのです。あんな人たちのために祈るなんて、まっぴらごめんだ!そう思うのも無理はありません。

しかし、そのような人たちのためにもパウロは祈るように教えます。なぜなら、私たち民衆が平和に暮らすためには、王たちや高官といった為政者が悔い改めて、神さまを畏れ、善政を敷き、戦争を選ばないことが必要だからです。私たちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るため、為政者たちを覚えて祈ることは必要です。

また、パウロのような宣教師が世界中に出かけていくためにも、世界が平和でなくては、移動もままなりません。そのためにも、為政者たちを覚えて祈ることは必要なのです。

それは悪い為政者たちに対して、無批判に、無抵抗に、ただ従順でいるということではありません。

ナチス・ドイツが台頭した時、ナチスに抗ったマルチン・ニーメラー牧師の警句は今日も有効です。

「ナチスが共産主義者を連れさったとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。社会民主主義者ではなかったから。彼らが労働組合員らを連れさったとき、私は声をあげなかった。労働組合員ではなかったから。彼らが私を連れさったとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。」

できれば政治とは無縁でいたい。けれども、私たち信仰者が声を上げなければならない時もある。

政治は私たちの生活と直結し、政治次第で私たちの信仰も脅かされることがあるのです。私たちが無関心でも、政治は私たちを放っておいてはくれないのです。また、神さまは、平和と社会的正義がこの地上に実現することを求めておられます。

聖書は「悪を避け、善を行い 平和を尋ね求め、追い求めよ」(詩編34編15節)、「平和や互いの向上に役立つことを追い求めよう」(ローマ14章19節)、「互いにいたわり合い、憐れみ深くあり

やもめ、みなしご、寄留者、貧しい者らを虐げず、互いに災いを心にたくらんではならない」(ゼカリヤ書7章9~10節)と言っており、私たちの主イエスさまも「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ福音書5章9節)と言っておられます。

キリストに招かれ、神の子とされた私たちは、平和を求め、平和を実現するものでありたいと思います。この日本でも、誰かを差別し、分断を煽り、戦争を肯定するような言葉が政治家たちの口から大っぴらに語られる今、民主主義の時代の日本に生かされているキリスト者として、差別や分断、戦争を求める声にはノーと言い、選挙権があるならば、一票を投じることのできない寄留者たちのことも覚えて、良い政治を行う人を祈り求めながら一票を投じたいものです。

平和を求めて行動することと、為政者たちが良い政治をするよう祈り求めること。特に、神さまに立ち帰るように祈ることは矛盾しません。公民権運動で人種差別に立ち向かったキング牧師は、差別をする白人たちと、差別を受けていた黒人たちが、同じ神さまの家族として、同じ食卓に着くことを夢見ていました。神さまは唯一であり、キリスト・イエスはすべての人の救い主、どんな人をも分け隔てなさらないお方なのですから。

私たち人間は皆、神さまの前で罪人であり、誰でも過ちを犯します。今は差別に反対する私も、誰かに対する差別心はあり、恥ずかしいことに、若い頃はより差別的でした。しかし、神さまに与えられた他者との出会いによって変えられていきました。

また、パウロも、以前は熱心にキリスト教徒を迫害する者でしたが、復活したイエス・キリストによって変えられ、神さまの愛を説く人に変えられました。

『「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした』(Ⅰテモテ1章15~16節)とパウロは言っています。

どんな人も、自らの過ちに気がつかされ、反省し、過ちを悔い改める可能性がある。どんな過ちも、神さまは愛をもって赦し、忍耐強く悔い改めるのを待っていてくださる。そして、私たちの過去の失敗も、誰かが愛である神さまに立ち帰るきっかけとして、神さまは用いてくださる。

どんなことも益、良いことへと変えてくださる神さまに感謝しつつ、すべての人のために祈り、できることを自分の周りからしていきましょう。

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