復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた。
「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」
<説教>「生きている者の神」
今日の聖書箇所は、イエスさまの宣教の終わりごろのことです。一行はエルサレムに入城し、近隣のべタニアを拠点に活動しますが、その際にイエスさまは敵対者たちから挑戦されました。
先週は草地先生にマルコによる福音書から、イエス・キリストは当時の家父長制の男性中心的な社会的常識を打ち破り、低く見られていた子どもたちを受け入れることが神の国を受け入れることなのだと言われたことを教えられました。
そのように、愛である神さまのことを教えるイエス・キリストの教えは、当時の社会的常識や宗教的権威者たちと対立するものでした。エルサレム神殿の祭司長や律法学者、長老たち、ファリサイ派、ヘロデ派の人々はイエスを殺そうと企みますが、人々から救い主として目され、人気のあったイエスさまに手を出すことは難しかったようです。そこで、彼らはイエスさまを試み、罠にかけ、イエスの失敗を狙いました。
当時のユダヤの民衆は、自分たちを支配するローマ帝国から、武力で解放してくれるダビデ王のような救い主が現れると信じていました。そこで、救い主としてふさわしくない弱気な言動を引き出し、民衆からの人気を下げるか、もしくは支配者であるローマ帝国への反乱の言葉を引き出して反逆者として捕らえようと企んで、ファリサイ派の人々とヘロデ派の人々が論戦をしかけます。
ファリサイ派は下級の祭司や市井の熱心な信仰者からなり、宗教的な掟を守ることを重視していました。預言された救い主がいつか来ること、死後の復活や天使を信じていました。イエスさまもこの一派と考えられていたようですが、その言動からしだいに敵対視されるようになって行きました。民族主義的で、ローマ帝国の支配を心よく思っていませんでした。
ヘロデ派は、ローマ帝国下でユダヤを支配していたヘロデ王家の支持者たちのことでしょう。彼らはヘロデ王家から恩恵を受けていたので、ヘロデ家以外の救い主、新しいユダヤ人の王の登場は邪魔でした。
本来ならあまり仲良くなることがなさそうなファリサイ派とヘロデ派が共謀するほど、彼らからすればイエスさまの存在は疎ましいものであったようです。しかし、さすがは神の子イエスさま。巧みな答えで彼らの企みを退けます。
すると今度は、サドカイ派の人々が挑みます。サドカイ派というのは、エルサレム神殿の祭司や貴族たちからなるグループで、旧約聖書の初めの方に収録されているモーセ5書のみの権威しか認めず、ファリサイ派とは違って、復活も天使も信じていませんでした。確かに、モーセ5書には直接的には復活についての記述はありません。だから、彼らは死んだらそれで終わりと考えていたようです。彼らはエルサレム神殿に仕える祭司でしたが、宗教家というよりは政治家のようで、ローマ帝国の支配下で上手くやって行こうと考えていた人々でした。
さて、そのような彼らがイエスさまのもとへやってきて、復活についての問答をふっかけます。
彼らは「復活はない」と言っていたのですから、まじめに議論するために来たのではありません。
復活について語るイエスさまを、群衆の前で馬鹿にしようとしてやって来たのです。
彼らはエルサレム神殿に仕えるエリート祭司でしたから、ガリラヤのような田舎から来たイエスさまに負けるはずはない、そう考えていたのかもしれません。
このように相手を見下し、はじめから馬鹿にする態度は今日の私たちの社会にでもしばしばみられますが、気持ちのいいものではありませんよね。冷笑といわれるような態度で、これでは初めから建設的な議論は期待できません。付き合うだけ時間の無駄のようにも思いますが、しかし、相手にしなくても彼らはイエスさまには答える能力がないのだ吹聴するでしょう。答えても答えなくてもイエスさまを窮地に追い込めるはずの、彼らからすれば決して負けないはずの勝負でした。
彼らは言いました。
「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
亡くなった兄の妻と結婚して兄の跡継ぎを残すというのは、今日の私たちからすればまったく理解しがたい掟ですよね。当時は家父長制の男性中心的で、個人よりも「家名」が大切にされる社会で、「家名」を残すために、そのようにしたのです。これはレビラート婚と呼ばれる掟で、申命記25章5節以下に書かれています。
さて、彼らが語っているのは実際にあった話ということではなく、机上の空論だと思いますが、彼らの言いたいのはこういうことです。「イエスやファリサイ派といった、復活があると信じている愚かな信仰者たち。もし、本当にお前たちが言うように復活があるなら、このたとえ話の女は一体誰の妻になるのだ。夫となった兄弟たちが復活してしまったら、彼らは重婚していることになって、兄弟の妻と結婚してはならないというレビ記の掟に背くではないか。さあ、答えてみろ。」
それに対して、イエスさま「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」と答えました。
モーセの書の『柴』の箇所とは、出エジプト記の3章で、モーセが神さまから語りかけられ、エジプトで奴隷とされていたヘブライ人たちを助ける使命を与えられた箇所です。わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神であるという宣言は、過去形ではなく、現在形です。モーセに神さまは、すでに死んだはずの祖先たちの神だと現在形で語られた。彼らが死んでいるのであれば過去形で語られるはずなのに、神さまは現在形で語られたのです。すべての命の与え主である神ご自身が、今も、亡くなった人たちの神であり続けていてくださる。それこそが復活です。復活を認めないサドカイ派も認める聖書の箇所から、復活についての答えをイエスさまは教えてくださいました。
死者の復活、それが具体的にどうなるかは、私たちは神さまではないので、はっきりとは分かりません。パウロも今はぼんやりとしか映らない鏡を通して世界を見ているようなものだと言っています。それでも、イエス・キリストを与えてくださった神さまは、けっして私たちを悪いようにはなさらない。それだけ分かっていれば十分なのではないでしょうか。死が死では終わらず、私たちの神さまは死を越えて私たちを導き、私たちを生かしてくださるお方です。その希望に支えられて、私たちはこの世にあって、絶望することなく、前を向いて生き続けることができるのです。
神さまは私たちを生かして下さる方。神さまにあっては、死は死で終わらない。たとえ私たちが死んでも、神さまは陰府、死の世界にまで私たちと共にきて、そこから導き出してくださる。モーセと共にエジプトに来て、エジプトから共に荒れ野に行き、カナンの地まで連れて行ってくださったように、神さまはいつも私たちと共にいてくださる。命である神さまが共にいてくださるのなら、私たちに「死」はない。だから神さまは「生きている者の神」なのです。
私たちが死者の中から復活するとき、神の子とされるとき、私たちは天使たちのようになると言われます。天使はいつも神さまのもとにいて、神さまを讃えます。神さまの国、神さまのもとでは嫁ぐことも、娶ることもない。私たちのこの世の常識とは異なる世界です。パウロは、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3章28節)と言っていますが、そのように、誰もが、性別や民族やすべての違いを超えて、誰をも隔てず、見下さず、互いに敬意をもって、同じ神さまを讃えて生きるのです。
サドカイ派のイエスさまへの問い、これ自体滑稽なものですが、先週の説教を踏まえて読むと、もう一つの視点へと導かれます。それは、七人の夫の妻とさせられた女性への視点です。確かに、当時の社会では女性が生きて行くためには誰かの妻にならなければ生きていけなかったでしょう。でもそこにはその女性の気持ちは考慮されていません。女性を家名のための道具として扱う醜悪さがあります。また、その女性を妻とした男性たちも同じように家名の道具とされています。自分の気持ちはどうあれ、たとえ好きでなくてもそうさせられてしまう、人間個人が尊重されないそのような家父長制の社会。個人ではなく家、民族、国家が優先される、戦前の日本の姿にも通じます。それをイエス・キリストは、そして神さまは、打ち壊し、自由な一人の人間として、互いに尊敬しあって生きる道を示してくださっています。私たちもそのように生きていけますように。
