2025年11月23日 降誕前第5主日・テモテへの手紙Ⅰ 1章12~17節

わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです。

以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。

そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。

「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。

しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。

永遠の王、不滅で目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

目次

<説教> 「キリストは罪人を救うため世に来られた」

早いもので、来週からアドヴェントが始まります。アドヴェントは救い主、イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスまでの準備の期間。毎年話していることですが、せっかくなのでアドヴェントについて皆さんと再確認するところから始めます。

アドヴェントは「到来」を意味するラテン語に由来し、「冒険」アドヴェンチャーと同じ語源だそうです。クリスマスを待つ、それは消極的・受け身的なことなのではなくて、冒険のような出来事なのだと考えると、なんだかワクワクしてきませんか。

アドヴェントの期間は4週間で、1週ごとにろうそくに一つづつ火を灯していきます。4つのろうそくに火が灯り、最後にイエス・キリストを表す5本目の白いろうそくに火が灯るとクリスマスです。

これは宗教改革後のここ数百年の間にできた新しい祝い方なのだそうですが、よくできているなぁと思います。4つのろうそくにはそれぞれ意味が与えられています。1つ目は希望、2つ目は平和、3つ目は喜び、4つ目は愛。どれもイエス・キリストを通して神さまが私たちに与えてくださる大切なものです。

このアドヴェントのろうそく、赤色や紫色を用いることが多いようです。赤は聖霊降臨をお祝いするペンテコステにも用いますが、イエス・キリストの十字架で流された血の色、神の愛や命を表します。紫はレント・受難節にも用いる色で、悔い改めや回心、待つことなどを表し、自分を振り返りつつ、救い主イエスさまの到来を待ち望む時期です。

悔い改めと言うと、なんだか暗い気持ちになるかもしれません。しかし、思い出してください。その先に待つのは、神さまからの赦し、喜びです。イエスさまは私たちを裁くためではなく、私たちの罪を赦し、私たちに命を与えるために来てくださったのです。そのことを思い出させるためでしょうか、3つ目のろうそくは喜びを表すピンク色のろうそくを用いるところもあるそうです。

自らを振り返る、特に自らの悪いところを見つめるというのは辛い行為です。できることならしたくない。でも、私たちがより良く生きるためには必要な行為です。私は演劇をしていましたが、舞台で本番を迎えるためには練習する、稽古する時間が大切です。その時には、演出家や仲間の前で演技を披露し、アドヴァイスを貰い、悪いところを直して、より良い演技を目指します。これは絶対に必要な過程です。はじめから完璧な演技ができる人なんていません。自らを振り返り、直し、より良い作品を目指していくのです。

同じように、私たちには、自らを謙虚に見つめ、より良い方へと向かって行くことが大事です。聖書は裁きや悔い改めを語りますが、それは神さまが私たちを裁きたいから・罰したいからではありません。そうではなく、私たちが神の子として、より良く生きてほしいと神さまが望んでくださっているからです。親や保育者、教師たちが子どもを叱るのも同じですよね。憎いからではなく、その子のことを思って叱るのです。耳に痛くても、聖書のみ言葉に耳を傾け、謙虚に応答していけたらと思います。

神さまは私たちの存在そのものを愛してくださっている。しかし、それは私たちのする悪い行為を黙認するということではありません。どんなに子どもを愛していても、子どもが悪いことをするなら、親は注意し、止めなければなりません。

「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」(エゼキエル18:23)

神さまはどんな悪人の死であっても喜ばない。そうではなく、彼が悪の道から離れ、愛である神さまに立ち返って生きることを神さまは喜ばれるのだと言われています。どんな人も、本来は神さまにかたどって造られた神さまの子(創世記1:27)なのですから。

また、救い主の原型であるダビデは、「打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:19)と歌いました。ダビデも完璧な人ではなく、何度も神さまに背き、人を傷づけ、罪を犯しました。それでも、神さまは彼を見捨てませんでした。それはダビデが間違うたびに反省し、神さまを信頼し続けたからだろうと思います。

私たちは間違う、失敗する、人を傷つけ、愛である神さまに背いてしまう。それでも、神さまは私たちを愛し、悔いる私たちを何度も、何度でも赦して、立ち返らせてくださいます。

私たちの神さまは、「恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」(ヨナ4:2)

今日の聖書箇所を書いたパウロも、大きな過ちをし、しかし、その罪を赦されて、神さまのために働くようになった人です。彼はキリスト教徒なる前は、熱心なユダヤ教徒で、自分は正しいのだと思い込んでいました。それゆえに、彼らからすれば間違った人たち、異端に見えるキリスト教徒たちを熱心に迫害した人でした(Ⅰコリント15:9、フィリピ3:6)。

「以前、わたしは神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした」(Ⅰテモテ1:13)、

「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」(ガラテヤ1:13)、

「わたしはこの道(キリスト教)を迫害し、男女を問わず縛り上げて獄に投じ、殺すことさえしたのです」(使徒22:4)と語られています。

しかし、あるとき復活したイエス・キリストに出会い、自分こそが間違っていたことに気が付かされます。神さまはそのようなパウロを赦し、そして、ユダヤ人ではない人々、異邦人に福音を伝える仕事を任せてくださいました。それはパウロが立派な人間だったからではありません。それは愛である神さまの憐れみによるものでした。

『「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。』(Ⅰテモテ1:15)

これは当教会の聖餐式の際にも用いている聖書の箇所で、私もとても好きな聖句です。

とてもほっとした気持ちになれます。

パウロのように、神さまのために働いた尊敬できる人も、もともとは大きな過ちを犯した「罪人」でした。しかし、「罪人の中の最たる者」ですら、神は憐み、赦し、用いてくださるのです。

「罪人」という言葉は、嫌だなぁと思うかもしれません。でも、聖書は誰もが罪人なのだと語っています。大丈夫、神さまの前では、私もあなたも同じ人間、罪人なのだ。しかし、その罪人である私たちを救うためにこそ、イエス・キリストはこの世に来てくださったのだ。

私のためにイエスさまが来てくださった。神さまの救いの物語は、私のためなのだ。そう思うと、なんだか嬉しくて、元気が出てきませんか。

パウロもそうでした。だからこそ、彼は熱心にイエス・キリストの福音、良い知らせを人々に伝える人となったのです。

私たちも罪人です。でも大丈夫、私たちにはパウロという先輩がいます。私たちがどんなに罪深くても、きっとパウロほどではありません。パウロは「神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした」し、「殺すことさえしたのです」。それでも、神さまはパウロを赦してくださった。罪人の頭であるパウロが赦され、救われたのですから、私たちのことも神さまは赦してくださいます。

神さまはご自分に従う者となったパウロを、その喜びを他の人たちに伝える使徒として用いられました。同じように、神さまに赦され、従うようになった私たちのことも、神さまは喜びを伝える使者と、それぞれの場で用いてくださいます。

クリスマス、主の訪れを待つということは、冒険でもあるのだと思います。クリスマスの物語を思い出してください。マリアもヨセフも、羊飼いたちも、博士たちも、みな旅に出ました。イエスさまも神さまのもとから旅立ち私たちのもとに来てくださいました。そして私たちも、神の子イエスさまに従う冒険に出るようにとクリスマスの物語は誘っています。 アドヴェントは、ただ待つ期間ではありません。それは自分を振り返りつつ、神の赦しと神の民として生きる喜びに向かう冒険の旅です。希望と平和、喜びと愛を与えてくださる救い主イエス・キリストを迎えるために、私たちも心を整え、わくわくした気持ちで、冒険に出かけまし

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