2025年12月7日 待降節第2主日 エレミヤ書 36章1~10節

ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。ユダの家は、わたしがくだそうと考えているすべての災いを聞いて、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。そうすれば、わたしは彼らの罪と咎を赦す。」

エレミヤはネリヤの子バルクを呼び寄せた。バルクはエレミヤの口述に従って、主が語られた言葉をすべて巻物に書き記した。エレミヤはバルクに命じた。「わたしは主の神殿に入ることを禁じられている。お前は断食の日に行って、わたしが口述したとおりに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。また、ユダの町々から上って来るすべての人々にも読み聞かせなさい。この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。」そこで、ネリヤの子バルクは、預言者エレミヤが命じたとおり、巻物に記された主の言葉を主の神殿で読んだ。ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの治世の第五年九月に、エルサレムの全市民およびユダの町々からエルサレムに上って来るすべての人々に、主の前で断食をする布告が出された。そのとき、バルクは主の神殿で巻物に記されたエレミヤの言葉を読んだ。彼は書記官、シャファンの子ゲマルヤの部屋からすべての人々に読み聞かせたのであるが、それは主の神殿の上の前庭にあり、新しい門の入り口の傍らにあった。

目次

<説教>「悪の道から立ち帰れ」

アドヴェントの第二主日です。二本目のろうそくに火が灯りました。このろうそくは「平和」を表すそうです。平和は、新約聖書のギリシャ語ではエイレーネ、旧約聖書のヘブライ語ではシャローム、平安とも訳される言葉です。私たちも、「主の平和」と平和の挨拶の際に用いています。この平和は戦争がない状態というだけでなく、神が共におられる全き平和を意味します。それは、どんな人も大切にされる神の国の平和です。

また今日は、私たちの属する日本キリスト教団では社会事業奨励日とされています。社会事業とは、もともとは孤児や病人、生活困窮者を救済する慈善事業を指していましたが、今日では保育・障がい者支援・高齢者介護・地域福祉など、すべての人の生活を支える社会福祉事業へと広がっています。こうした働きはイエス・キリストの説いた隣人愛の具体的な実践であり、神の国の実現のための働きです。そのために働く方々を覚えて祈る時としていただけましたら幸いです。

さて、今日の聖書箇所はエレミヤ書です。エレミヤは、ヨシヤ王の治世第13年(前627年)に神さまから預言者とされ、ゼデキヤ王の最終年である治世第11年(前586年)までの約41年間、南ユダ王国で神さまからの警告を伝える預言者として活動しました。しかし、彼の警告は無視され、ユダ王国は滅びます。国の滅びを目撃した彼は、涙の預言者と呼ばれています。

彼は神さまから、警告するように命じられ、エルサレム神殿で呼びかけます。

「…お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。 この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。そうすれば、わたしはお前たちを先祖に与えたこの地、この所に、とこしえからとこしえまで住まわせる。 しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わたしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる。

シロのわたしの聖所に行ってみよ。かつてわたしはそこにわたしの名を置いたが、わが民イスラエルの悪のゆえに、わたしがそれをどのようにしたかを見るがよい。今や、お前たちがこれらのことをしたから――と主は言われる――そしてわたしが先に繰り返し語ったのに、その言葉に従わず、呼びかけたのに答えなかったから、わたしの名によって呼ばれ、お前たちが依り頼んでいるこの神殿に、そしてお前たちと先祖に与えたこの所に対して、わたしはシロにしたようにする。わたしは、お前たちの兄弟である、エフライムの子孫をすべて投げ捨てたように、お前たちをわたしの前から投げ捨てる。」(エレミヤ書7章12節~15節)

エフライムの子孫をすべて投げ捨てた、とは北王国のアッシリアによる滅亡を指しています。

南ユダ王国の王と祭司は神が神殿と王制を保持してくださることを、取り消されることのない約束としてしてくださったとして楽観視していました。神さまが住む神殿があるのだから大丈夫だと思っていました。しかしエレミヤは、南王国は悪を行い、他の偽りの神々を拝み、真の神との契約を守っていないのだから、北イスラエル王国が滅びたように、南ユダ王国も滅びると預言します。

南王国にとって、北王国が滅びたのは、自分たちも改めなければ同じようになるという教訓になるはずでした。しかし、南王国の人々は神の神殿があり、ダビデへの神さまからの約束があるのから大丈夫と楽観視し、警告するエレミヤを無視しました。

エレミヤは神と民の契約を結婚にたとえています。結婚における契約は双方の愛と誠実、忠実さによって守られますから、一方が裏切れば、その関係は破綻してしまいます。神は裏切る方ではないので、その破綻はいつも民の裏切りによって起こりました。

南王国自身が神さまに対する契約を破っているのだから、国は滅びるとエレミヤは警告したのです。これは、イエス・キリストが批判した、律法主義に通じます。形ではなく、その内実、神さまへの忠実さが大事で、神さまの言葉を都合よく解釈することは気をつけなければなりません。

それは今日のイスラエルにも通じます。彼らはアブラハム・イサク・ヤコブへの約束、モーセらを通しての約束があるゆえに、神からパレスチナの地を与えられたとして、ガザやヨルダン川西岸地域への侵略や植民を正当化しています。しかし、神さまがアブラハムらを選んだのは、彼らを通して諸国民、世界中のすべての人が祝福されるためであり、イスラエルだけが良ければそれでいいというものではありません。彼らは、殺すな、隣人のものをむさぼるな、隣人を愛せ、寄留者を愛せといった神からの掟、契約に背いてしまっています。彼ら自身が契約を破っているのだから、当然、土地を与えるという約束も無効です。彼らが隣人を愛し、祝福する時、初めて土地を与えるという約束も有効となるのです。神さまは彼らが悪の道から離れて立ち帰ることを望んでおられます。

神さまは預言者を通し、悪を告発し、裁きを伝えます。しかし、それはただ裁きたいからではありません。エレミヤは言っています。

この民に向かって告げられた主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない。

神さまがエレミヤを通して伝えたかったのは、悪の道から離れ、主に立ち返ることです。預言者の警告を聞き、自らの悪を反省し、悪の道から方向転換して、愛である神さまに従って生きようとすることです。

けれども、エレミヤの預言の説教は、祭司や他の預言者たちから嫌われ殺されそうになり(エレミヤ書26章)、エレミヤと同じような預言をしていたウリヤという預言者は、時のヨヤキム王によって殺されてしまいます。耳に痛いことは聞きたくない、そう思い、悪い状況に目をつぶり、結果、益々悪くなるということは今日の日本の政治でも同じことが起こっているように思います。

命は助かったものの、神殿に立ち入ることを禁じられたエレミヤは、それでも警告せざるを得ず、自分の書記バルクに預言を書き記させ、自分の代わりに神殿で代読するように頼みます。

バルクが預言の言葉を朗読したのは、神殿で断食が行われる日でした。断食は神さまの前に悔い改め、神さまの赦しと憐みを乞う行為です。ユダヤでは断食する風習がありましたが、9月は断食する月ではありませんでした。この当時、南ユダ王国はエジプトの支配下にありましたが、新バビロニア帝国が台頭してアッシリアを滅ぼし、頼りにしていたエジプトや近隣諸国も攻撃を受けているという困難な状況の中で、状況を打開するべく、断食が行うことにしたのでしょう。

断食をする日であれば、彼らも神さまの言葉、預言を受け入れてくれるに違いない、悪の道から立ち返るに違いない。そのような、祈るような期待を込めてエレミヤとバルクは預言を朗読したのです。その預言を聞いた役人たちは大いに驚き、その重要性を知って、当時の王、ヨヤキムに伝えねばと考えました。しかし、同時にエレミヤとバルクに身を隠すようにと忠告します。残念ながら王は、耳に痛い預言の警告を聞き入れないと分かっていたのでしょう。

はたして、ヨヤキム王は預言の巻物を読み上げさせるたびに、巻物をナイフで切り裂き、暖炉にくべて燃やしてしまいました。神さまからの言葉を拒み、王も側近も、誰も預言の言葉によって悔い改めようとはしなかったのです。彼らの断食は、形式的なもので、心は伴っていなかったのです。

王たちは神さまからの警告を無視し、その結果、南ユダ王国も北イスラエル王国のように滅びていきました。せっかく警告したのに、何度も言ったのに…。エレミヤら預言者たちの、そして神さまの心痛はいかばかりだったでしょうか。

けれども、それで終わらないのが神さまです。普通であれば、私たちであれば、もうあきらめて、見捨てようと思うかもしれません。それでも、何度裏切られても、何度無視されても、諦めず、見捨てず、ついにご自身の御子イエスさまを送ってくださったのです。それほどまでに、私たち人間は神さまに愛されているのです。神さまは子どもを見捨てない、親のようなお方です。

神さまがおられるところは「正義の住まうところ」、公正に裁きがなされ、誰も虐げられることのないところです。しかし、モーセの契約は、イスラエルとユダによって、すでに破られてしまいました。それでも神さまは彼らを見捨てず、新たな契約が結ぶことにしたのです。今度の神さまの律法は石板ではなく、それぞれの心に刻まれるとエレミヤは預言します(エレミヤ書31章)。

その新たな契約は、イエス・キリストを通して、新しいイスラエルと結ばれることになります(ルカ福音書22章20節)。その新たなイスラエルとは、いまやユダヤ人だけでなく、すべての人のことです(ガラテヤ書3章)。アブラハムの子孫である、キリストを通して、すべての民が祝福されるという神さまの約束が実現したのです(創世記22章18節)。イエスさまを通して招かれた私たちの心には、すでに、互いに愛し合いなさいという律法が刻まれているのです。

平和を想う第2のろうそくに火を灯しました。ユダとイスラエルの出来事を教訓に、私たち人間が悪の道から立ち帰って、互いに愛し合い、大切にしあい、地に平和が実現しますように。そのために、私たちも家庭や会社や近所や教会から、愛の業を始めましょう。

(祈り)

私たちをあきらめず、愛してくださる神さま。あなたのお名前を賛美いたします。平和を祈る、2つ目のろうそくに火が灯りました。どうかあなたの平和が、すべての人に来ますように、まだまだ平和には程遠い現状ですが、イエス・キリストに倣い、私たちもあきらめず、小さなできる愛の業を近くから、なしていくことができますように。私たちを、そしてすべての人を照らしてください。

この祈り、平和の御子イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン

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