2025年12月14日 待降節節第3主日 イザヤ書 40章1~11節

慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。

エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ

苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。

罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。

呼びかける声がある。

主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。

険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。

主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る。

主の口がこう宣言される。

呼びかけよ、と声は言う。

わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。

肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。

草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。

草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

高い山に登れ 良い知らせをシオンに伝える者よ。

力を振るって声をあげよ 良い知らせをエルサレムに伝える者よ。

声をあげよ、恐れるな ユダの町々に告げよ。

見よ、あなたたちの神 見よ、主なる神。

彼は力を帯びて来られ 御腕をもって統治される。

見よ、主のかち得られたものは御もとに従い 主の働きの実りは御前を進む。

主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め 

小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。

目次

<説教>「呼びかける声」

3つ目のろうそくに火が灯りました。今日はアドベントの第3週目です。いよいよ来週には、すべての人の救い主イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスがやってきます。第3アドベントろうそくのテーマは「喜び」です。待ち望んだ救いの時、喜びの時がついにやってくる、その訪れに期待しつつこの時を過ごしたいと思います。

これまでにも、アドベントにはその週ごとにテーマがあることをご紹介してきましたが、アドベント全体のテーマはやはり「待ち望む」ということです。それは私たち人間だけのことではありません。神さまご自身もまた、私たちが愛である神さまへと立ち帰ることを待ち続けておられるのです。

今日の招きの言葉でお読みいただいたペトロの手紙にはこう書いてあります。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(ペトロの手紙Ⅱ 3章8~9節)神さまの望みは、すべての人が神さまのもとに立ち帰り、神さまの子として生きることです。そのために、忍耐強く待っておられるのです。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11章1節)と言われていますが、たとえ今がどうであろうとも神さまは必ず良いようにしてくださると、私たちがまだ見ぬ先の良いことを信じ、神さまを信頼しているように、神さまもまた、神さまに造られた私たち人間が必ず神さまのもとに帰ってくると信じて待っていてくださっているのです。この相互の信頼の出会うところが、イエス・キリストの誕生の物語です。

水曜日の祈祷会や、こども園での朝の祈祷会では、私たちの教会が属している日本キリスト教団の聖書日課から聖書を読んで祈っています。ここ2週間ばかりの間はイザヤ書の前半部分が選ばれていました。そこでは当時のユダの国の権力者たちの神さまへの背き、貧しい人たちへの搾取や不正、政治的な腐敗や圧政が告発され、裁きと滅びが語られていました。しかし、イザヤを通して語られた預言を聞いても為政者たちは悔い改めず、結果、ついに国は滅び、主だった人たちは遠い東の地、バビロンへと連れされられるというバビロン捕囚が起こりました。

国は滅びてしまった、自分たちも遠い異国にいて、故郷に帰ることができない。自分たちが頼りにしていた神殿ももうない。つい神さまのせいにして、神さまを恨んでしまいたくなるかもしれない状況ですが、彼らは自分たちが神さまに背いた結果であったということを見つめ、神様への信仰に立ち返ることにしました。もちろん、中には神さまへの信仰を捨てた人もいたことでしょう。しかし、ユダヤ人がユダヤ人であるためには神さまへの信仰が何より必要だったのです。すべて失った彼らには、神さまからの約束しかありませんでした。しかし、最後に残った神さまへの信頼こそが、彼らに希望を与え、遠い異国でも生きることができたのです。

神さまが悪かったのではない。神さまは、神を愛し、隣人を自分のように愛することを教えておられたのに、自分たちが神さまに従わず、神さまに背いたから国が滅びたのだ。神さまは悪くない。神さまはいつだって正しい方なのだ。そのことを受け入れることが、困難の中でも、彼らを生かしてきたのです。彼らの神さまへの信頼は、自らの過ちと苦難、困難の中で、神さまを待つ中で、育てられていきました。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生んだのです。それは神さまからの訓練、トレーニングなのだと、受け止めて、彼らは待ち続けました。

そのような彼らを神さまは見捨てず、イザヤを通して再び語りかけます。今度は警告と裁きではなく、解放と救いのメッセージでした。「慰めよ、わたしの民を慰めよ…、心に語りかけ、…呼びかけよ。苦役の時は今や道、…咎は償われた、と。あなたは罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」

このみ言葉通り、やがて捕囚にされたユダヤ人たちは解放されました。そして、まさにこの言葉と同じことが、イエス・キリストを通して、今度はすべての人に実現したと、新約聖書は私たちに語っています。

「主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。

谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。

主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」

これはこどもメッセージで読まれた、洗礼者ヨハネが語ったことでもあります。旧約の時代にイザヤを、新約の時代にヨハネを通して呼びかけられた声、それは「でこぼこの道を平らにせよ」そして「主を迎えよ」ということです。

毎年、私たちは主イエス・キリストが来られるクリスマスを祝い、主が私たちを愛し、私たちの罪を赦して永遠の命を約束してくださったイースターを祝います。そして毎週日曜日ごとに、私たちはそれが自分のための物語だということを確認し、自分が神さまの民であることを確認します。

それは日常を離れ、自分の時間から少し離れて、神さまとの時間を作ること。神さまが自分の心にいてくださる空間を作ることと言えるのではないでしょうか。聖書のみ言葉を聞き、メッセージを聞き、神さまと向き合う中で、自分の中にあるでこぼこな思い、山や丘のような傲りや凝り固まった思いを平らにし、狭い視野を広くしていく、そのような時であると思うのです。

またこのことは、神さまの前では皆同じということも思い出させてくれます。

私たちはこの社会に山や谷のような違いを造り出すけれども、イエスさまが通られるのはそうした人間が勝手に造り出したでこぼこを平らにしたところ。神さまの前ではみな同じ。

呼びかける声は言います。

「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。

草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。

草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」

私たち人間はみな空しい者。どれだけ花のように栄華を誇っても、いつかは必ず枯れしぼむ。

しかし、私たちと共にいてくださる神さまの言葉、イエス・キリストは永遠。自分を誇るのではなく、共にいてくださり、すべての人を愛してくださるイエスさまを喜びましょう。この方ほど、確かなものはありません。この方こそ、私たちの神。私たちの、主なる神です。

「彼は力を帯びて来られ 御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い 主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

私たちの主は羊飼い、私たちはその羊。私たちが彼を自分のものとして勝ち取ったのではなく、主

ご自身が、私たちを勝ち取って自分のものとしてくださった。主がいつもともにいてくださるのだ

から、私たちは一体何を恐れることがあるでしょう。大丈夫、私たちは永遠なる愛の神、イエス・

キリストのもの。安心して、喜んで、主の呼びかける声に応え、来るクリスマスを迎えましょう。

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