その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
<説教>「向こう岸に渡ろう」
先週の11日は「信教の自由を守る日」でした。今では想像しにくいことことかもしれませんが、日本が戦争に負けて新しい憲法が出来るまでは、人権も思想信条良心の自由もありませんでした。
今の憲法も完璧ではないけれど、明治憲法よりも本当に素晴らしいものだと思います。そのことは、朝ドラの「虎に翼」をご覧になった方も感じておられるでしょう。
憲法は国家権力を縛り、人間の自由と尊厳を守るものです。それなのに、憲法を改悪して、戦前の憲法のように国民の人権を制限し、戦争の出来るようにしようとする政治家たちがいます。政治家も公務員、公僕、公の僕であり、憲法を尊重し擁護する義務がある(憲法第99条)のに、憲法を変えようとするのは憲法違反です。もし今の憲法が改悪されてしまえば、戦前のように、人権も、信教の自由も制限され、戦争によって子どもたちが戦場に送られてしまうかもしれません。命の大切さや愛を教えてきた教会や園としても、到底許すことのできないことです。そうならないように、憲法を守ることを私たちキリスト者も訴えていきたいと思います。
また、今週の18日㈬は「灰の水曜日」で、この日から四旬節、レントが始まります。四旬節の旬とは「10」のことで、四旬とは「40」日のことです。イエスさまが荒れ野で40日断食したという出来事に由来し、悔い改めと祈りの時として過ごし、イエス・キリストの復活を記念する復活祭・イースターまでの心の準備をする期間です。灰は旧約聖書において悔い改めを示すために用いられました。また、人は塵に過ぎないのだということを思い出すための物でもあるでしょう。その塵に過ぎない私たちに目を止め、神の独り子イエス・キリストを私たちの身代わりとしてくださるまでに、神さまは私たち人間を愛してくださっています。イエスさまは十字架によってすべての隔てを打ち壊し、私たちに「敵」などいないこと、すべての人が大切で、互いに愛し合うことを教えてくださいました。そのことを心に留めて、ご一緒にこの時期を過ごしていきたいものです。
さて、今日の聖書箇所です。今日のパレスチナの北部、ガリラヤ地方で神さまの国について教え始められたイエスさま。イエスさまはガリラヤにあるガリラヤ湖のほとりで、しばしば教えておられたようです。さてある日、イエスさまが弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われました。
今日の箇所の続きを読むと、向こう岸というのはガダラ人の住んでいる地域、ユダヤ人ではなく異邦人の住む地域だったということが分かります。ガラダはデカポリスの一つで、デカポリスは当時ガリラヤの東部にあった、ギリシャ文化の影響を受けた都市群のことです。
当時のユダヤ人たちは宗教的な理由から、異邦人・ユダヤ人ではない人々と交流することを極力避ける人が多かったようです。ですから、イエスさまの弟子たちも、内心では異邦人の多く住んでいる地域には行きたくないと思っていたかもしれません。しかし、先生であるイエスさまが言われるのなら仕方がない。イエスさま一行は向こう岸に向かって舟を漕ぎ出しました。
すると激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどだったそうです。今日の舞台のガリラヤ湖は世界で2番目に低いところにある湖で、谷底のような所にあり、突風がしばしば吹いたそうです。このことを聞いた時、関西出身の私は、琵琶湖のことをイメージしました。琵琶湖も四方を山に囲まれており、しばしば突風が吹きます。それでJRの湖西線は良く止まるのです。身近なところに重ね合わせると、聖書の物語がより近くに感じられる気がします。
以前、ガリラヤ湖の底から、イエス・キリストが活躍したのと同時代、紀元1世紀ごろに使われていた舟が発見されました。ガリラヤ湖は水深約44mで、比較的浅い湖だそうで、浅瀬の多いガリラヤ湖で活躍していたこの船は、漁船で、船底が浅く平たい形をしていて、岸に引き上げやすい形だったそうです。しかし、船底の浅い船は風に弱く揺れやすいそうですから、突風が吹いた時の恐怖はどれほどだったでしょう。ガリラヤ湖の漁師出身で、ガリラヤ湖に慣れているはずの弟子たちでさえ動転するほどの風だったようです。それなのに、イエスさまは舟の艫の方・船尾の方で眠っておられたそうです。嵐の中にもかかわらず寝ているという描写は、旧約聖書のヨナ書に出てくる預言者ヨナを彷彿とさせます。
弟子たちはイエスさまを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言いました。「何とかしてください、助けてください!」そんな気持ちだったことでしょう。もしかしたら、「行きたくなかったのに、あなたのせいでこんな目に!」と思ったかもしれません。
イエスさまは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われました。すると、なんと、風はやみ、すっかり凪になったそうです。
そして、イエスさまは弟子たちに言われました。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。
弟子たちは助けてもらったにもかかわらず、非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言いあいました。彼らはまだ、自分たちの先生が、神の子であり、すべての人の救い主であるということを、理解していなかったのです。
さて、この物語から、今日の私たちはどんなメッセージを受け取ることが出来るでしょうか。もちろん、色々な読み方が出来ますが、今回私はイエスさまが弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われたことに、心を惹かれました。聖書の物語には、たくさんの「向こう岸に渡る」物語があります。
神さまからの促しによって、違う場所へと旅する物語がたくさんあります。アブラハム、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨナ、イエス・キリスト、そして弟子たち…。そう考えると、この物語は、イエスさまの弟子となった私たちの物語だなとも思うのです。
イエスさまに促されて、弟子たちが向かった「向こう岸」は異邦人の地域でした。彼らユダヤ人はあまり異邦人と交わりたくないと考えていましたから、ユダヤ人である弟子たちからすれば、あまり行きたくないところだったことだろう。私たちの人生もまた、そうなのだろうと思う。神さまの促しによって、神さまに従って、旅する共同体。それが私たちキリスト者。舟は私たちの人生や、教会にたとえられることがあります。その向かう岸は、あまり行きたくないところかもしれない。突風が吹き、嵐の中で、乗っている舟が沈みそうになり、恐怖し、おびえ、惑い、神さま・イエスさまに恨み言を言いたくなることもあるかもしれない。先生、こんな時になぜ寝ているんですか、助けてください!と言いたくなることもあるかもしれません。
そんなとき、「黙れ。静まれ」と嵐を鎮めたイエスさまのことを思い出しましょう。イエスさまは弟子たちを見捨てず、救ってくださるお方です。そのお方が、私たちと一緒にいてくださっています。イエスさまは、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と弟子たちに語りかけました。信じるとは、信頼すること。神の子、私たちの救い主がいつも一緒にいてくださるのだから、大丈夫。
私たちも、イエスさまが示される「向こう岸」へ渡りたいと思います。それは、自分だけという思いを越えて、互いに愛し合うという道です。時に、居心地のいいところに留まるのではなく、外へ、境界線を越えていくことが求められることもあると思います。それは、必ずしも喜びを伴わないこともあるでしょう。しんどい、嫌だなと思うこともあるでしょう。でも、従ってみれば、その岸に着けば、良かったなと思えるのだと思うのです。
ユダヤ人の祖は神さまに従ったヘブライ人です。ヘブライ人とは、「川の向こうから来た人」というような意味なのだそうです。つまり、川を越えてやって来た難民・移民です。私たちの人生も旅にたとえられますよね。聖書でも、私たちは一時、この世界に仮住まいしているようなものだと言っています。目指す、先は私たちの本国、天の国です。まだ見ぬ天の国、どんな人も等しく、神の子としてお互いに尊重し合い、互いに大切にしあう素晴らしい世界です。それはイエス・キリストが打ち破ってくださった、隔てのない世界です。
もちろん、境界線を越える、外へと出ていく、向こう岸に渡ることは怖いことです。ノアの方舟のように、水は死を意味しますから。怖くて当然です。沈んだらどうしよう、溺れたらどうしよう…。居心地のいい今を失ったらどうしよう。
でも、同時に水は命や喜びをも意味します。向こう岸へ渡ることは、救いや喜びを意味したりもします。アブラハムは約束の地へと導かれましたし、モーセに率いられたヘブライ人たちはファラオの追っ手から、水をくぐって救われました。また、アメリカ南部で奴隷とされて酷使されていたアフリカン・アメリカンの人々は、「地下鉄道」という秘密組織によって北部へと逃れました。その時、彼らはヨルダン川を渡るのだと言ったそうです。私たちの洗礼も水を用います。それは古い自分に死に、イエス・キリストと一緒に新しい命に生きることを表します。
神さまは私たちに境界線を越えて、「向こう岸」へ渡るように促されます。それに対して、私たちは時に行きたくないなと思うかもしれません。その途中で、舟が転覆するような困難と恐怖に陥るかもしれません。でも、イエスさまは私たちと一緒に向こう岸へと渡ってくださいます。私たちと一緒にいて、嵐を鎮めてくださいます。そうまでして、イエスさまは私たちに向こう岸に渡らせたいのです。
いつも共にいてくださる主を信頼し、一緒に、隣人愛、神の国という、向こう岸へと渡りましょう。
