2026年4月19日 復活節第3主日 ヨハネ福音書 10章7~18節

イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。―― 彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」

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<説教>「羊の門、良い羊飼い」

イエス・キリストは復活した後、天に昇るまでの40日の間、弟子たちの前に現れて神の国について教えました(使徒言行録1:3)。イエスさまはそれまでも弟子たちに神の国について教えておられましたが、それはイエス・キリストの受難と死、そして復活したイエスさまに出会うという出来事を通して、初めて理解されることでした。復活した弟子たちはイエスさまから再び教えを聞きながら、そうか、先生が言っていたのはこういうことだったのかと改めて理解していったのでしょう。私たちもイエス・キリストの復活を祝うイースターから、ペンテコステの時まで、イエスさまの教えを振り返りながら、励ましを受けたいと思います。

イエスさまはたとえを用いて教えることが多かったようです。今日の箇所では、ご自分を羊の門と良い羊飼いに、そして私たちは羊にたとえられています。

今日の私たちはあまり羊を見る機会は多くないと思いますが、当時のパレスチナの人々にとって、羊は貴重な食糧であり、毛から衣服を作ったりと宗教儀式に用いたりと、なくてはならない動物でしたし、アブラハム、イサク、ヤコブらヘブライ人の祖となった人々やモーセも羊などの家畜を飼う遊牧民でしたし、救い主・メシアの原型となったダビデ王ももともとは羊飼いでしたから、当時の聴衆にとってとても身近に感じられるたとえだったことでしょう。

羊は角を持っていますが、小型の草食動物ですから、大きな肉食動物には勝てません。当時のパレスチナにはライオンや熊、狼や野犬などの羊を狙う獣がおり、また貴重な財産でもありましたから、盗人にも狙われる危険がありました。そこで羊を飼う人々は石を積み、円形や四角形の囲いを作って羊を守ったのだそうです。その羊の囲いの入り口、門は一つだけでした。

イエスさまはご自分をその羊の囲いの門にたとえました。イエスさまという門を入る者は救われる。これは囲いの中を神の国にたとえられていると考えていいでしょう。石で積んだ堅牢な安心できる囲いの中へ、イエスさまという門を通って入り守られるのです。イエスさまが来られたのは、私たちが命を受けるため、しかも豊かに受けるためだと言われています。私たちのためにイエスさまは来てくださった。なんと心強いことでしょう。

また、イエスさまはご自分を良い羊飼いにもたとえています。羊飼いはその門から羊を連れ出し、美味しい草や水があるところへ連れていき、またその門から囲いの中へと入れます。羊は賢い動物で、飼い主の声を聞き分けることが出来るので、飼い主以外にはついて行きません。私たちはイエス・キリストという良い羊飼いに飼われている羊です。

イエスさまはただの羊飼いではありません。この上なく良い羊飼いです。羊たちのために命まで捨てるのです。イエスさまはご自身で語られた通り、すべての人の罪の身代わりとして、十字架にかかって死なれました。

このたとえでは良い羊飼いと対比して、雇われた羊飼いや狼が出てきます。雇われた羊飼いは狼が来るのを見ると、自分の命が惜しいので羊を置いて逃げ出します。守る者がいなくなった羊の群れを狼は追い散らし、食い殺します。しかし、真の羊飼いは羊を守るために命を投げ出し、そして羊を守ることに成功しました。賢い羊である私たちは、自分たちを守ってくださる良い羊飼いであるイエス・キリストの声を聞き分けよう、今日の聖書箇所はそのことを教えています。

聖書には羊や羊飼いのたとえがたくさんありますが、特に今日の箇所は旧約聖書の預言書、エゼキエル書34章や詩編23編を彷彿とさせます。そこでは神さまご自身が私たちの羊飼い、牧者になってくださるということが歌われています。

さて、私は神さまのお話をする牧師という役割をさせていただいていますが、牧師もこの羊飼い、牧者に由来します。けれども、自分を振り返った時、はたして自分が良い羊飼いかというとそうではないだろうなとも思います。でもそれも当然だとも思うのです。普通、羊のために命を捨てる羊飼いはいません。普通ではしない、出来ないことをしたからこそ、イエスさまは良い羊飼い、真の羊飼いなのです。

ローマ・カトリック教会において聖職者は神さまの代理人と考えますが、私たちプロテスタントではそうではありません。牧師は神さまの代理人ではなく、皆と同じ、イエスさまの羊の一人です。

このことは一見、自分を守っているように思えるかもしれません。なぁんだ、と思われるかもしれません。でも私は、このみんなと同じということがとても大事なのだと思うのです。

牧師は決して清くも強くもない、弱いただの普通の人間です。もちろん、神さまのことを語るのですから、いい加減なことを言わないようにと勉強し、祈りながら必死で説教を考えますが、それでも、完全な存在である神さまとは違い、あくまでも神さまに造られた不完全な存在である人間だから、完全なことは言えません。でもこの不完全さの中に、弱さの中にこそ、神さまが働いてくださるのだとも思うのです。

もしも牧師や人間が完全なのであれば、一体どこに神さまに働いて頂く余地があるでしょうか。でも人間は不完全だし、間違います。誘惑に陥ることだってあるでしょう。だからこそ、イエスさまが必要なのです。

この自分という存在の不完全さを忘れず、謙虚でいることを忘れたならば、牧師はたちまち雇われた羊飼いどころか狼に成り下がってしまう。そう思うのです。牧師はあくまでも神さまの僕で、皆さまに仕え、神さまを指し示す仕事です。ですから、自分が人に仕えられて偉そうに振舞うという誘惑に陥らないよういつも祈っています。教える、「先生」と呼ばれる仕事ですが、私たちの本当の先生はイエス・キリストしかいません。

今日のたとえは私たちに安心をくれますが、一方で、気をつけなければならないところでもあります。それは自分自身が良い羊飼いや、羊の囲いの門と勘違いしてしまわないようにということです。

「羊の門、良い羊飼い」とはただお一人、イエスさまだけなのです。それを牧師や誰かが、さも自分こそがその人であると振舞うならば、たちまちカルト宗教への道が開いてしまいます。

「 そのとき、『見よ、ここにメシアがいる』『いや、ここだ』と言う者がいても、信じてはならない。偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。あなたがたには前もって言っておく。だから、人が『見よ、メシアは荒れ野にいる』と言っても、行ってはならない。また、『見よ、奥の部屋にいる』と言っても、信じてはならない。」(マタイ福音書24章23~26節)

これは何も牧師や宗教者だけに限った話ではありません。羊飼いという表象・イメージは王などの権力者にも当てはめられてきました。時に権力者は自分が救い主のように振舞い、人々の賛美を集めようとします。先日もアメリカのトランプ大統領が自分をキリストのように描いた画像をSNSに掲載しました。神さまのように振舞いたいという誘惑は人間の罪の根源にあるものなのだと思わされますが、その結果が不幸なものしかもたらさないことは歴史が証明しています。

私たちはこの世の偽りの救い主などの誘惑の声ではなく、イエス・キリストの声を聞き分ける羊でありたいと願います。そのためにいったい何が出来るのでしょう。どうすれば私たちはイエスさまの声を聞き分けられるのでしょう。それは「愛」であるのだと私は確信しています。

私は不完全であり、完全に正しいことは言えません。でも、これだけは確かだと信じていることがあります。それは、神さまは「愛」であるということです。それは聖書に証しされており、このことを私に教えてくださったのは聖霊なる神さまであると信じています。

私たちのために命まで投げ出してくださった神の子でありすべての人の救い主であるイエスさまは、その生き方を通して、神さまの愛を証ししてくださいました。それはすべての人が神さまの大切な羊、神さまの子どもとなり、神さまに愛されている子どもたちとして互いに愛し合うためです。

自分の愛する子どもたちが憎み合っているのを見て喜ぶ親はいないでしょう。神さまも同じです。

今日の世界では、差別や分断、戦争や殺し合い、暴力などを煽る偽りの声に満ちています。「しかたないんだ、あいつらは敵だから攻撃してもいいんだ!」。でも、神さまは「殺してはならない」、「隣人を自分を愛するように愛しなさい」と言われ、イエスさまは「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」、「互いに愛し合いなさい」と言っておられます。

今日の聖書箇所でもイエスさまはこう言っておられます。

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。

その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」

私たちは囲いを作って、他者と自分を分け、安心し、また分けることによって他者を攻撃することを正当化してしまうことがある。でも、イエスさまは、囲いの外にも私の羊がいるといっておられ、その人をご自身で導くと言っておられるのです。イエスさまは私たち人間が勝手に作ってしまう隔ての壁を打ち壊し、私たち人間が一緒に生きるためにこの世に来てくださったのです。

他者と共に生きること、それは面倒で、大変なことです。でも、イエスさまはすべての人を愛しておられる。たとえ私自身が愛せなかったとしても、その人も神さまに愛されている大事な人なのだ。互いに優劣はないのだと、お互いに尊重しあえれば、一緒に生きて行く道が開けるのではないでしょうか。イエスさまのもとで、異なる者同士が、互いに尊重し合って生きる時、そこは神の国と呼べる世界だと思います。

人を追い散らし、殺し、奪う声。戦争や殺し合い、差別や暴力などを煽る偽りの声ではなく、「愛」を説くイエス・キリストの声、愛に根差し、私たちに命を与え、違いを尊重しつつ互いへの敬意と思いやりから私たちを一つにする、真の羊飼いであるイエスさまの声にこそ従って生きましょう。

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