終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、
悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、
主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」
もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。
<説教>「神の子どもたちとして、共に生きる」
今日は礼拝後に教会総会があります。2025年度の月寒教会の歩みを振り返り、2026年度をどのように歩んでいくかを考える大事な場です。その総会の中で私たちは毎年、年間聖句と教会標語を定めています。2025年度はローマの信徒への手紙12章10節「きょうだい愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた相手と思いなさい」を年間聖句に、「ここも神のみ国なれば-神の恵みを共に喜ぶ-」を教会標語に掲げて歩んできました。
私たちキリスト教徒はイエス・キリストがすべての人の、そして私たち自身の救い主と信じる人たちの集まりです。イエスさまは神の子であるのに、十字架によって私たちの身代わりに死に、私たちの罪を赦して永遠の命を与え、神さまの子どもとしてくださいました。イエスさまは私たちの愛する先生であり、主人です。イエス・キリストに救われ、イエスさまのものとなった私たちは、イエスさまに従って生きて行こうと望みます。
そのイエスさまは私たちに何を望んでおられるのか。それは、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)ということです。これこそが最も大切な教えです。神さまは愛なのですから。神さまは、神さまの子とされた私たちも愛することを求められています。けれども、他者を愛するということはなかなかに難しい。どうすれば私たちは互いに愛し合って生きて行くことが出来るのでしょうか。でも大丈夫、神さまはちゃんとそのヒントを聖書の中に残してくださっています。その一つが、「きょうだい愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた相手と思いなさい」ということです。あなたも、私も、どんな人も、みんなみんな神さまに愛されている大事な人。すべての人の親である神さまに造られた私たちは、いわば神さまの家族であり、きょうだいのような存在です。私たち人間は他者を好き勝手に評価して優劣をつけ、見下したり傲慢になったりするけれど、神さまから見たらみんな同じ、不完全な罪人であり、同時に愛されている神さまの子どもです。この世界を造られた神さまの前では、誰も自分を誇ることは出来ません。神さまに造られた同じ人間として、互いに敬意を持ち相手を優れた存在だと思うこと。それが私たちが互いに愛し合うためには不可欠です。昨年はそのこと意識して、歩んできました。
そして年間標語の「ここも神のみ国なれば-神の恵みを共に喜ぶ-」。神さまは遠いどこかにおられるのではなく、いつも私たちと一緒にいると言ってくださっています。イエスさまは、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言って下さり、また、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)と言われました。私たちは神さまがお造りになった世界に生かされています。神さまは私たちを愛し、私たちに必要なものをすべて与え、この世界で愛し合って生きるようにと言っておられます。確かに、私たちは生きる中で様々な苦しみ悲しみも経験します。でも神さまはそれだけでなく、喜びも与えてくださっているはずです。神さまのお造りなった世界は美しく、私たちの人生は無駄ではない。私たちを価値あるものだと神さまは言ってくださっています。たとえこの世の政治や社会が悪くても、悪が力を振るっていたとしても、イエス・キリストが死に打ち勝たれたように、どんな悪もいつか必ず神さまの愛の前に敗れ去る。その希望に私たちは生きています。
大丈夫、神さまが一緒にいてくださっている。ここも神さまが造られ、神さまが共にいてくださっている神さまの国で、私たちはその国の住民です。神さまに愛されている神さまの国の住人として、一緒に喜び合って生きて行きたいと願いながら昨年を歩んできました。
さて、今年の年間聖句と教会標語の案について、年間聖句は今日お読みいただいたペトロの手紙Ⅰ3章9節から「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」を。教会標語は「神の子どもたちとして、共に生きる」としたいと考えています。決定はこの後の教会総会の中でなされますが、なぜこれらの言葉を年間聖句と教会標語にしたいのかをお話いたしますので、この後の判断の材料としていただければと思います。
この手紙はイエス・キリストの弟子、ペトロから地中海世界のあちこちに離散して生きるキリスト者の人々に宛てて書かれた励ましの手紙です。私たちの信仰について教え、そしてどのように生きてくべきかを勧めています。当時はローマ帝国の支配下で、奴隷制などの身分制度があり、人権などもなかった時代に生きていた人々へ宛てて書かれた手紙なので、今日とは社会状況も違いますから、すべてを今に生きる私たちに当てはめるわけにはいきませんが、それでも、今日に通じるところもあり、今なお私たちを励まし、教えをくれる手紙だと感じます。今日の所もそのような箇所です。
終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。 悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。
年間聖句として、この「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」とのみ言葉を選びました。神さまが私たちの信仰の祖アブラハムを選んだのは、すべての人を祝福するためでした(創世記12:2、ガラテヤ3:8)。私たちは神さまに祝福されていますが、それは自分だけでなく他者を祝福するためです。十字架で死んだ私たちの主イエス・キリストが復活されたとき、自分を裏切った弟子たちの前に現れてしたことは、弟子たちを赦し祝福することでした。
イエスさまは復活した後、天の父なる神さまのもとへと帰って行かれましたが、その際、手を上げて弟子たちを祝福し、祝福しながら天へと帰って行かれました(ルカ24:50~51)。私たちはこの世の終わりの時には再びイエスさまが天から帰って来られると信じていますが、その時イエスさまは「天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1:11)と聖書には書かれています。つまり、手を上げて祝福してくださったのと同じ姿で、私たちを祝福するために帰ってきてくださるのです。
私たち牧師も礼拝の最後に、祝祷、皆さまの祝福を祈ります。その際には手を上げて祝福を祈りますが、それはイエスさまの祝福してくださる姿の模倣です。イエスさまが皆さんと共に居て祝福してくださっている、それを見える形で表わしているのです。そのようにイエスさまに祝福された私たちは、この世に派遣され、それぞれの場でイエスさまの愛に倣い、他者を祝福しながら、祝福を他の人へと継いで行くのです。
この世で生きることは、時に辛いことかもしれません。でも、私たちは神の民、神さまの子どもたちです。たとえこの世がどうであれ、この社会がどうであれ、神さまの子どもである私たちは、正しい良心を神さまに願い求め、悪に流されず、善を追い求めながら、互いに愛し合い、他者を祝福し、どんな人とも共に生きて行きましょう。
