2026年1月25日 降誕節第5主日 マルコ福音書 1章21~28節

一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

目次

<説教>「かまわないでくれ」

先週はイエスさまが宣教を始められ、そしてガリラヤ湖で4人の漁師を弟子にした場面を読みました。今日の聖書の舞台、カファルナウムはガリラヤ湖の北西にある町でイエスさまの弟子となった漁師たち、シモン・ペトロとアンデレの兄弟が住んでいた町です。

ローマ軍の駐屯地と収税所があり、栄えた町だったようです。イエスさまはこの町を拠点として、イスラセルの北部、ガリラヤ地方で宣教をされていました。

ある安息日にイエスさまはカファルナウムにある会堂で教え始めたそうです。会堂とは教会のような場所を想像して頂いたら良いでしょう。礼拝や教育、集会など様々な目的で使われるユダヤ人共同体の中心をなす施設です。そこで安息日ごとに人々は集まって礼拝し、聖書を朗読し、教えあっていました。

イエスさまが会堂で教えたとき、それを聞いた人々はたいへん驚いたそうです。それはイエスさまの教えが律法学者と呼ばれる他の聖書の教師とは違い、権威ある者として教えたからだと書かれています。

律法学者たちは聖書に書かれている掟をどのように守るべきか、どのように日常に適用するべきかといったことについて教えていました。ユダヤ人たちは自分たちを神から選ばれた民だと信じ、神から与えられた掟、律法を守ることで神が与えてくれるであろう救いから漏れないようにということを気にしていました。今日でも厳格に解釈するユダヤの人々は安息日には労働をしてはいけないと言う教えから、安息日にはボタンを押してはいけないという解釈をしてボタンを押さなくても各階に停まるエレベーターなどを使うそうです。そういったことを聞くと今日の日本に住む私たちは重箱の隅をつつくような議論で極端だなと笑ってしまいますが、神の掟に背いたため国が滅びたと信じている人々からすれば死活問題なのです。

近代に入って科学が発達すると宗教は個人の心の問題だと考えられることが多くなりましたが、本来宗教は生活そのものであり、日常生活と密接に結びついています。~をしなくてはならない、~をしてはいけないといった教え、例えば豚肉を食べてはならない、安息日には何歩以上歩いてはいけないなどは日々どのように暮らしていくかということに直結しますから当時の人々にとって、重大な関心事だったことでしょう。また宗教は今日のような個人の問題ではなく共同体の問題でしたから、宗教で決められている掟、律法を守れない人々は罪人だとされて白い目で見られていたようです。しかしイエスさまの教えはそういった聖書の掟の解釈、どのように適用するかといったこととは違ったようです。

今日の聖書箇所ではこのときイエスさまが聖書のどの箇所を朗読し教えたのかは書かれていませんが、ルカ福音書4章ではイエスさまが故郷のナザレという町の会堂で教えた時のことが書かれています。そこではイザヤ書から「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」という箇所を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と教えました。また先週の聖書箇所、マタイ福音書1章15節では「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたことが記されています。

イエスの教えは、神の国がやって来た。神さまご自身がこの世界を支配する時がやってきた、だから自己中心的な生き方をやめて、愛である神さまの方を向いて神さまの与えてくださる救いを信頼して受け入れなさいと宣言することだったようです。

イエスさまの言葉には力があります。神さまは言葉を通してこの世界を創造されました。神の言葉の特徴は、それが実現するということです。イエスさまが神の国が近づいたと言われたとおり、神の子ご自身が私たちを救うためにこの世へと来て下さったのです。

キリスト教でいう「罪」とは的外れ・方向違いのことで愛である神さまの方を向かず自己中心的に生きることですが、このような状態にある私たちは神との断絶状態にあると言われます。命の与え主である神と関係を絶たれ、死に向かって生きているのです。しかし、もう大丈夫。私たちは自分で自分を救うことは出来ないけれど、神さまの方から私たちの方へ来て下さった。だから悔い改めて、視点を変えて、向きを変えて神さまの方を向いて、愛である神さまの支配される世界のもとで、安心して生きていこう。そのように宣言して、神と人との関係を修復して下さるのです。

さて、イエスが教えた会堂のなかに、汚れた霊に取り憑かれた人がいました。汚れた霊とは悪霊のことで、悪魔と同じと思ってかまわないでしょう。悪魔は人間を惑わし、神から遠ざけようとする存在のことです。

汚れた霊は取り憑いた人の口を通して叫びます。「あなたが誰だか知っているぞ!かまわないでくれ!」「放っておいてくれ!」「わたしとあなたとは何の関係もない!」

私たちはしばしば神さまと関係のない存在かのように生きてしまいます。自分は清くないから、正しい人間ではないから、そちらの方が楽だからと様々に理由をつけて神さまから離れた状態でいようとするのです。

愛である神さまに従うことは簡単なことではないかもしれない。自分中心的な生き方は楽に見えるから。他人のことなど知ったことか、自己責任だ。弱いあいつが悪いのだ、努力しないあいつが悪いのだ。しょせんは弱肉強食、勝ち組・負け組。そんな風に他者を見下したり、反対に、どうせ自分なんて・・・と必要以上に卑下したり。あいつらだけずるい、痛い目に遭わせたい。足を引っ張ってやる。と人のせいにして逆恨みしたり。今日でも汚れた霊は私たちに取り憑きます。

神さまは愛であると知っているのに、愛である神さまとは到底関係ないような生き方をしてしまう私たち。しかし、イエスさまはご自分から私たちの方へと来て下さいます。そうして私たちに取り憑いた汚れた霊に「黙れ、出て行け」と命じ、追いだして下さるのです。

人々は皆驚いて、論じ合いました。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」ここで使われている「驚いた」、と言う言葉は「内から外へ叩き出す」という表現なんだそうです。

汚れた霊、悪霊、悪魔は、神の子であるイエス・キリストには勝てず追い出されました。私たちが神さまに対して「かまわないでくれ!」という気持ちになるとき、私たちと一緒にいて下さっているイエスのことを思い出しましょう。そしてイエスさまに、悪い思い、汚れた霊を外へ叩き出してもらいましょう。

大丈夫、イエスさまはいつも私たちと一緒にいてくださっています。私たちは神さまのもの。神さまと関係ない存在ではなく、神の子どもです。愛である神さまの子どもとして歩みましょう。

目次