2026年2月1日 降誕節第6主日・公現後第4主日 マルコ福音書 4章1~9節

イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」そして、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

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<説教>「聞く耳のある者は聞きなさい」

イエスさまは今日のパレスチナ北部、ガリラヤ地方を中心に神の国について教え始めました。ガリラヤの中心にはガリラヤ湖(ティベリアス湖、キネレト湖、ゲネサレト湖とも呼ばれる)という湖があります。南北に約21㎞、東西に約13㎞。この北海道にある湖と比較すると、洞爺湖・摩周湖・屈斜路湖などのほぼ倍の大きさと考えると、想像しやすいでしょうか。

あるとき、イエスさまが湖のほとりで教えていると、たくさんの群衆が集まって来ました。そこでイエスさまは、舟に乗って腰を下ろし、湖畔にいる人々に教え始めました。湖が近くにない私たちには、なんだか想像しにくい光景だと思います。群衆に押しつぶされないように舟で逃れたのでしょうか。どうやらそうではないようです。イエスさまの主だった弟子たちはガリラヤの漁師出身でしたから、舟を日常的な移動の手段として用いていたのかもしれません。その舟に乗って、腰を下ろし、湖の上から群衆に向かって教え始められました。

ガリラヤ湖は、ヨルダン地溝帯という巨大な断層帯の底に位置し、海抜約-210mのところにあり、塩の湖として有名な死海に次いで世界で2番目に低いところにある湖です。谷底のような地形にあると想像していただいたらいいでしょう。ですから、湖から湖畔に向けて話したとき、まるで円形劇場で話しているかのように、イエスさまの声は良く聞こえたことと思います。

イエスさまは腰を下ろして、座って教えました。日本では教師は立って教えることの方が多いでしょうが、ユダヤでは座って教えるそうです。日本でも腰を据えるという言葉がりますね。腰を据えて、じっくりと教えるのです。座って話している先生の声を聞こうと思えば、聞き手は、より集中して聞かなければならないのではないでしょうか。積極的に聞こうとしなければ、聞き取ることは出来ません。学びとは、聞きたい、教えを受けたいという受け手の能動的な態度が大事なのではないでしょうか。

イエスさまは「よく聞きなさい」、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われます。神の国についての教えも、この積極的に聞こうとする態度が必要なのだと思います。英語には聞くという言葉には2種類あるそうです。一つは「hear」で、聞こえてくる、自然と耳に入るといった感じ。もう一つは「listen」で、よく聞く、注意深く聞く、聞こうとして聞くといった感じです。イエスさまが言われた「よく聞きなさい」はこの「listen」の方、意識して注意深く聞く方が求められているのだと思うのです。

イエスさまは教える時に、よくたとえを用いました。これはファリサイ派の教師・ラビたちもそうだったようで、ユダヤ教を学ぶ人々にとって、身近な一般的な方法でした。聖書の中にもたくさんのたとえが出てきますし、今日の私たちも日常的に良く使う手段ですよね。たとえは私たちの身の回りにある日常的な物事や想像しやすいことを用いて、理解を助けてくれます。

今日の聖書箇所では、イエスさまは種を蒔く人のたとえを用いて、神の国について教えています。ガリラヤの気候は温暖で、土地も肥えており農業に向いているそうです。また、今日とは違って、自分たちで食べるものは基本的には自分たちで作っていたでしょうから、種まきのたとえは聞き手の群衆にとって、とても身近で、想像しやすいものだったことでしょう。

一方でたとえには物事を分かりにくくする、意味を隠すような効果もあるそうです。このイエスさまの語られた種蒔きのたとえもそうでした。ただ普通に読めば、普通に聞けば、種を蒔いて、悪い土地に落ちたのもあったけど、良い土地に落ちたの種たちからたくさんの収穫が取れた。なるほど、そりゃそうだよね、当たり前だよねという話でしかありません。これを聞いた多くの人は、イエスさまは結局何が言いたかったんだろうと頭をかしげながら帰っていったことだと思います。

彼らが帰った後、イエスさまの弟子たちと、周りにいた人たちがイエスさまにこのたとえの解説を頼みました。するとイエスさまは「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」と言われたそうです。

えー、イエス・キリストはすべての人の救い主のはずなのに、秘密にされて、赦されない人がいるの!?とびっくりしてしまいます。これはどういうことでしょうか。ここでイエスさまが引用したのは旧約聖書イザヤ書6章です。その前の5章では、神さまに背いて、貧しい人を虐げる資産家や、賄賂を取って公正な政治をしない権力者たちの姿が告発されています。ですからこの引用は、預言者を通して語られた神さまの言葉を聞き入れない人々の現状について語られているのだと言う人もいます。

しかし、やはりここは、この時は秘密が隠されていたのだという読み方で良いようにも思います。

弟子たちには神の国の秘密が打ち明けられていて、外の人々にはたとえによって理解できないと言われていますが、続くところで弟子たちは、このたとえの意味が分からずイエスさまから叱られています。大丈夫、イエスさまの周りにいた弟子たちですら、イエスさまの教えが理解できなかったのです。彼らが本当にイエス・キリストの言葉が理解できたのは、イエスさまが十字架で死に、そして復活したイエスさまに出会った後でした。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(Ⅰコリント1章26~29節)と宣教者パウロは言っています。

そのように、だれも自分の知恵では理解できないように、自分自身を誇って誰かを見下すことのないように、十字架と復活の時までは秘密にされていたのです。

けれども、イエスさまが復活なされた今は、どのような人にも神の国の秘密は隠されていません。神の国の秘密、それは神さまが、独り子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりとしてくださるほどに、私たちを愛してくださり、私たちの罪が赦されたこと。そして、私たちにも神さまに愛されている神さまの子どもとして、お互いに大切にしあいながら生きることを求めておられることです。

その視点で、この種を蒔く人のたとえに続く解説を見てみましょう。

「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」(マルコ4章14~20節)

イエスさまは、このたとえにおける種とは「神の言葉」なのだと言っておられます。イエスさまは私たちに、このたとえの良い土地のように、み言葉を聞いて受け入れ、良い実を結ぶことが期待されています。

なるほどそうか。では土地とは?私たち?私たちにはもとから良い土地のような人も、悪い土地のような人もいるということ?もしそうなら、私は自分を振り返った時、とてもじゃないけれど自分のことを良い土地だとは思えません。むしろ、道端、岩だらけ、茨だらけの土地の方が、より自分に近いなと思ってしまいます。

けれどもイエスさまは、私たち人間の一人ひとりの持っている資質について語られたのではないと思うのです。イエスさまは、一貫して、「よく聞きなさい」と私たちの態度について語っておられます。ここで「良い土地」と言われているのは、私たち一人ひとりの、神の言葉を聞き、受け取り、従おうとする態度のことなのです。

種を蒔く人は、この土地は良いから、この土地は悪いからと区別せずに、分け隔てなく、どんなところへも種を蒔きました。それはすべての人を招いておられる、神さまの愛を表しています。神さまの言葉を聞いて従おうとするのか、聞き流すのか、それが私たちに問われているのです。

道端、石だらけ、茨の中、これらは私たちにも身に覚えがあるでしょう。でも、大丈夫。イエスさまは、この後の箇所で、私たちが知らぬ間に、成長する種のたとえを語っておられます。私たちが気が付かなくても、神さまご自身が成長させてくださる。成長させてくださる神さまを信頼しましょう。

「朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか それとも両方なのか、分からないのだから。」(コヘレト11章6節)

種を蒔く人は、神さまやイエス・キリストを指していると考えられますが、また、私たち信仰者一人ひとりのことだとも考えられます。私たちプロテスタントの信仰は、万人祭司説に立っています。牧師や神父、司祭だけでなく、一人ひとりが神さまに招かれ、それぞれの場で、祭司として、日常の生活のを通して、主の福音を証ししていく、種蒔く人であると言えます。どこに蒔こうかと考える必要はない。主がしてくださったように、私たちも、どんな人にでもみ言葉の種、福音、良い知らせを蒔く。それは実を結ばないものもあるかもしれません。けれども、私たちが分からなくても、必ず神さまが、主ご自身が実を結ばせ、大きな収穫を与えてくださるのです。

「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり わたしの道はあなたたちの道と異なると

主は言われる。

天が地を高く超えているように わたしの道は、あなたたちの道を

わたしの思いは あなたたちの思いを、高く超えている。

雨も雪も、ひとたび天から降れば むなしく天に戻ることはない。

それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ 

種蒔く人には種を与え 食べる人には糧を与える。

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。

それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ55章8~11節)

「涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。

種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は

束ねた穂を背負い 喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(詩編126編5~6節)

涙を喜びに変えてくださる主を信頼し、聞く耳をもって、聖書のみ言葉を受け入れ、愛である主に従って、今週も歩んでいきましょう。

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