2023年11月12日 降誕前第7主日・障がい者週間(18日まで)創世記12章1~9節

1 主はアブラムに言われた。

「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい。

2 わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。

3 あなたを祝福する人をわたしは祝福し あなたを呪う者をわたしは呪う。

  地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」

4 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。 アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。

5 アブラムは妻のサライ、甥のロトを連れ、蓄えた財産をすべて携え、ハランで加わった人々と共にカナン地方へ向かって出発し、カナン地方に入った。

6 アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。

7 主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」

アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。

8 アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。

9 アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。

目次

<説教> 「祝福の約束」 三好祐輝牧師

 今週は日本キリスト教団では「障がい者週間」(11月の第二主日からの一週間)とされています。これは、1979年にNCC(日本キリスト教協議会)が定めたもので、NCCに加盟している日本キリスト教団もそれに合わせているそうです。日本でもバリアフリーやユニバーサルデザイン、インクルーシブデザインと言った言葉が聞かれ、すべての人が使いやすいものをという考えが出てきました。しかし、まだまだ定着しているとはいいがたく、インターネットのSNSで車いすの人が駅やバスが使いにくいと発信すると、心無い人々に批判されるという事も起きています。また、発達障がいなど、外見からでは分かりづらい障がいもあります。私も中学・高校の宗教の教員免許を取る際に障がいについて学ぶ機会がありました。その時の講師の先生は、「障がい」とは虹のようなグラデーションで境目は曖昧なのだと教えてくれました。どんな人も何かしらかの生きづらさを持っています。自分にとっての「普通、当たり前」は他の人にとっての「普通、当たり前」ではないかもしれないという視点をお互いに持てたらと思います。それがすべての人にとって生きやすい、使いやすい、社会や環境に繋がっていくのではないでしょうか。イエス・キリストは十字架において、すべての壁を取り払われました。私たちの心にある他者への偏見という障害も取り払っていただけたらと思います。「障がい者週間」という機会を、障がいについて考え、祈る時として用いていただけたらと思います。

 さて、今日は創世記12章1~9節、「アブラハム」の召命、アブラハムが神さまから使命を与えられた物語です。アドベントに向けて、旧約聖書からイエス・キリストの誕生に繋がる、神さまの約束に目を向けていきましょう。

 アブラハム(多くの国民の父)という名前は、創世記17章で神さまから頂いたもので、12章ではまだアブラムという名前です。神さまは彼を多くの国民の父にすると約束されましたが、その約束の通り、彼は同じ神さまを信じるユダヤ教、キリスト教、イスラム教で信仰の祖となりました。ヨハネによる福音書8章33節で、ユダヤ人たちは「私たちはアブラハムの子孫です」と言い、39節で「私たちの父はアブラハムです」と言っており、自分たちがアブラハムに繋がる民族であることを誇りとしていました。

 そのアブラハム、今日のところではまだアブラムですが、良く知られているアブラハムという言葉で呼びます。彼はどのような人で、彼になされた神さまの約束とはどのようなものだったのでしょうか。アブラハムはもともとカルディアのウル、現在のイラク南部に住んでいましたが、父親のテラに従って、カナン地方、現在のパレスチナ・イスラエル・シリアのあるあたりへ向かいました。その途中のハランというところ、現在のトルコ南東部で一行は留まります。そこはユーフラテス川の上流にある肥沃な土地で、古くから農耕の発達した豊かな場所だったようです。アブラハムたちは、不自由のない生活が出来ていたのかもしれません。(創世記11章)

しかし、あるとき、神さまがアブラハムに言われます。

「あなたは生まれ故郷 父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。

わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める祝福の源となるように。

あなたを祝福する人をわたしは祝福しあなたを呪う者をわたしは呪う。

地上の氏族はすべて あなたによって祝福に入る。」

 すでに暮らしを立てていたでしょうから、普通ならば躊躇するところでしょう。このことを告げたのは本当に神さまなのか?そして、本当に祝福されるのだろうか?そう疑っても無理はありません。しかし、アブラハムは神さまに従って、それまでの生活をすべて捨てて、家族たちと共にカナン地方に向かいます。

 彼らがシケム、現在のパレスチナ、ヨルダン川西岸にあるところに来た時、モレの樫の木で神さまがアブラハムの前に現れて「あなたの子孫にこの土地を与える。」と約束されました。その言葉通り、アブラハムとその子孫はカナン地方に住み、祝福されました。

 アブラハムはそれまでの生活を捨てて、神さまに従い、見知らぬ場所へと冒険の旅に出ました。アブラハムに代表される聖書の登場人物は、人間の目には見えない神さまに従い、目に見えず触れることも出来ない「神さまの約束」を信じ、神さまに従います。

 私たちはいま、アドヴェントとクリスマスに心を向けています。これは先輩牧師からの受け売りですが、アドヴェントは「到来、向かって来た」意味するラテン語のアドヴェントゥスに由来し、この言葉は「冒険、向かって行く」を意味するアドヴェンチャーの語源となったそうです。アドヴェントは神さまの約束通りに、神の子イエス・キリストがこの世へ来た、冒険のように心躍る出来事ですが、同時に、その約束を受け入れ、迎える私たちにとっても、まだ見ぬ約束へと向かって行く冒険だと言えるかもしれません。イエス・キリストの誕生物語に出てくるマリアとヨセフの夫婦も、羊飼いたちや東方の博士たちも、神さまの呼びかけに答えて、神さまに従いました。それはアブラハムと家族たちが、それまでの生活を捨てて神さまに従ったように、困難な事だったでしょう。でも、神さまはその先に必ず祝福を用意してくださいました。

「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」(ヘブライ人への手紙11章1節)

 アブラハムは信仰の模範であり、信仰の父と呼ばれます。神さまのアブラハムとの約束は、エジプトで奴隷になった時も、イスラエルの王国が出来、国が南北に分裂し、滅びて捕囚となり、世界中にヘブライ人、ユダヤ人たちが散らされた時も彼らの支えとなりました。

 しかし、この事は自分たちが神さまに選ばれた民、「アブラハムの子孫」だとして自らを誇り、傲慢になり、他者を見下す危険も含んでいます。

イエス・キリストの先駆者、洗礼者ヨハネは言います。

「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。

 言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」

(マタイによる福音書3章9節)

また、パウロは言います。

「肉による子供が神の子供なのではなく、約束に従って生まれる子供が、子孫と見なされるのです。」

(ローマの信徒への手紙9章8節)

「神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。」(ローマの信徒への手紙3章29~30節)

「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく“霊”によって心に施された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです。」(ローマの信徒への手紙2章29節)

 このことは何もユダヤ教徒だけに限りません。情けない話ですが、私も昔、勘違いをし、傲慢になっていた時がありました。自分は何者でもないのに、クリスチャンの家に生まれたという事で自分を誇り、他者を見下していたのです。

 しかし、パウロははっきり言っています。

「人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。」(ローマの信徒への手紙3章27節)

 神さまの選びや救いは、すべて神さまの人間への一方的な愛、恵み、憐れみによるものです。神さまは、「正しいものはいない。一人もいない」(ローマの信徒への手紙3章9節)という言葉によって私の驕りを打ち砕いてくださいました。人は誰も自分を誇ることは出来ず、ただ、すべての人を愛してくださる神さまの事のみ誇ることが出来ます。

 さて、神さまとアブラハムの約束というと、土地を与えるという約束ばかり強調されますが、もっと大事な約束があります。それは、アブラハムが「祝福の源」となり、「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る。」(創世記3章2~3節)ということです。

「『地上のすべての民族は、あなたから生まれる者によって祝福を受ける』と、神はアブラハムに言われました。」

(使徒言行録3章25節)

神さまはすべての人を祝福するためにアブラハムを選びました。そしてアブラハムの子孫として神の子イエス・キリストが来られ、すべての人を神と和解させ、祝福してくださったのです。神さまの選びは、ただ自分たちだけが選ばれたから好き勝手していいというものではなく、他者を祝福して、隣人を愛し、神さまの愛を伝え、神さまを賛美するものなのです。

「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネによる福音書1章9節)

 神さまはユダヤ人だけの神だけでなく、すべての人の神であり、すべての人を祝福してくださいます。神さまはまずアブラハムを選び、ユダヤ人たちをご自分の民とされましたが、

「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。

『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる。」

(ローマの信徒への手紙9章25節)

と言ってくださいます。

 イエス・キリストは十字架によって、すべての隔ての壁を打ち壊されました。すべての人は神さまの子どもとして招かれ、祝福されます。

この中には、まだ信仰に確信が持てず、洗礼を受けておられない方もおられます。洗礼を受けていない人には神さまの祝福は関係ないことなのでしょうか。そんなことはありません。神さまはすべての人の神であり、すべての人を祝福するためにイエス・キリストをすべての人の救い主として遣わしてくださいました。救いとは神さまがなさることであり、一方的な神の恵みです。大丈夫、すべては神さまがなさる出来事であり、聖書に興味を持ったり、礼拝に参加しようと思ったこと自体が、すでにあなたが招かれている証拠です。

 では洗礼とはいったい何なのか。すでに祝福が約束されているなら洗礼は無意味なのか。そうではありません。洗礼は神さまが定められたものです。アブラハムが神さまに従ったように、洗礼は自分も神さまに従って生きていこうという応答のしるしです。私たちは苦しい時、洗礼を受けたという事実によって、神さまの約束を思い出し、苦難を乗り越える力を頂くのです。もし迷っておられる方がおられましたら、ぜひお声がけください。

 さて、今日は、神さまがアブラハムに約束されたことから、私たちもイエス・キリストによってアブラハムと共に神さまから祝福されることを覚えて頂けたらと思います。そしてそのことを喜びながら、アドヴェントへと一緒に向かっていきましょう。

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