2024年 5月 19日 聖霊降臨日(ペンテコステ)、 使徒言行録 2章1~11節

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、

2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、

6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、

 自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。

7 人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。

8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。

9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、

 また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、

10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。

 また、ローマから来て滞在中の者、

11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、

 彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」

目次

<説教>「聖霊に押し出されて」

 フランスの小説家、ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」という有名な作品があります。主人公のジャン・ヴァルジャンは、未亡人の姉とその子どもたちを養うために、パン一個を盗んで捕まり、また脱走を繰り返したために19年も投獄されます。ようやく出所してからも元犯罪者という事で、社会から冷たくされ、この世の理不尽に打ちのめされて、世界を呪うようになります。

 そんな彼が、ある時、ミリエル司教と出会い、食事と一晩の宿を提供してもらいます。ぜいたくな暮らしをしている他の司教と違い、施しをするなどして、つつましく暮らしているミリエル。その彼から温かなもてなしを受けたジャン・ヴァルジャンでしたが、これまでの経験は彼をすっかり人間不信と憎悪の塊にしてしまっていました。彼は皆が寝静まった後、司教の大切にしていた銀食器を盗んで逃げだします。

 翌朝、ミリエルのもとに、警官に捕まったジャン・ヴァルジャンが連れてこられます。職務質問を受けた際に、貧しい身なりに不釣り合いな高価な食器を持っていたことで、窃盗犯として捕らえられたのです。しかし、ミリエルは「それは私があげたものだ」と言い、彼をかばいます。その上、銀の燭台まで与えました。ミリエルの証言によって罪赦され、銀の食器と燭台を正しいことに使うようにと約束をさせられて、新しく生きる道を示される、という有名な話です。

 作者のユーゴーはキリスト教徒であり、この作品にはキリスト教の愛と赦しと希望が込められています。「レ・ミゼラブル」を読んだことがなくても、この場面だけ知っているという人も多いのではないでしょうか。実は、このエピソードにはもう少し続きがあります。

 ミリエルを通して、初めて他人に優しくされたジャン・ヴァルジャンは、その状況を受け止めきれずに座りこみ、考え込んでしまいます。そこへ小銭を落とした煙突掃除夫の少年がやってきます。「お金を返してくれ」と言われますが、身に覚えのないジャン・ヴァルジャンは冷たく少年を追い払ってしまいます。しばらくして立ち上がった彼は、自分の足元に落ちていた少年の小銭に気が付きます。慌てて、少年を追いかけますが、もう少年はどこかへ行ってしまっていました。

 これまでは世の理不尽を呪っていた彼。しかし、この出来事を通して、自分の中にも罪があることを知った彼は、本当に変わりたいと望むようになります。そして、ミリエル司教との約束、「正しく生きる」ことを胸に、それ以後、何度も間違えながらも、彼は他者を愛する生き方を全うしていきます。

 イエス・キリストの弟子たちに聖霊が下ったことを記念する聖霊降臨日の礼拝で、なぜこの話をしたのかというと、私にはこのジャン・ヴァルジャンの物語が、聖霊降臨後の弟子たちの生涯と重なって見えるからです。

 イエスの弟子たちは、救い主の弟子として自分は正しいと思って生きていたことでしょう。しかし、その彼らも、イエスが捕らえられ、十字架にかけられた時には、イエスを裏切って逃げてしまいました。キリスト教では、どんな人でも罪があると言います。何も悪いことをしていないのに「罪」だなんて、と反発する気持ちを持つ人もおられると思います。私もそうでした。自分は悪くない、自分は正しい、そう思う、そう思いたい、そんな気持ちが私にもあります。でも、これまでの人生を振り返ってみると、やはり自分の中にも罪が確かにあると思わざるを得ません。幼稚園の頃、私はいじめられていました。力の強く、運動神経のいいガキ大将にいじめられ、誰にも味方してもらえない。先生もその子を叱らない。毎日泣いていました。何とか仕返しがしたくて、子どもなりに必死に知恵を絞り、素早く逃げ回る彼を、部屋の隅に追い詰めて顔面パンチ。やった、泣かせた!仕返しできた!しかし、先生に叱られたのは私でした。

 これまでさんざん彼にいじめられ、泣かされてきたとき、先生は何もしてくれなかったじゃないか。それなのに、自力で仕返しをしたら、自分だけが叱られる。理不尽だ!そう思っていました。

 その後も彼からのいじめは無くならず、追いかけてくる彼から逃げながら、何度も神さまに彼の死を祈りました。幸いにして、その祈りは叶いませんでした。今考えるとなんと恐ろしいことを祈っていたのだろう、叶わなくて本当に良かったと思いますが、その当時は自分が何を願っているのか分かっていませんでした。

 その後、小学校に入ってもいじめられることがありました。しかし、そのように、他者からいじめられる苦しみを知っていたはずの自分も、自分よりも体の小さな子をいじめてしまったという情けない経験もあります。それだけでなく、人様に言えない様々な間違いを犯してきました。

 私はクリスチャンホームに生まれました。「いい子」と呼ばれ、またそうありたいと思いながらも、そうなれない自分に苦しんでいました。クリスチャンは正しい人のはず。しかし自分はそうではない。死ぬまでには「クリスチャン」になれたら…、そう思いながらも勇気の出ない私に、ある牧師が、「義人はいない、一人もいない」という言葉をくれました。これはローマの信徒への手紙3章10節にある言葉です。新共同訳聖書では「正しい者はいない。一人もいない」となっています。

 大丈夫、正しい人なんていない。それでも神はあなたを愛している、という神からの赦しのメッセージです。そのことを教えてもらったとき、本当にほっとしました。それまでは自分は間違っていない、自分は正しいと、自分を守ろうとしていたものが、そんなことしなくてもいいということを知ったのです。今でもそのような自分を守ろうとする自分は無くなっていませんが、それでも、自分の間違いを認めやすくなったと思います。そしてとても楽になりました。そして、神に従って生きたいと思わせてくれました。

 冒頭に紹介したジャン・ヴァルジャン、そしてイエスの弟子たちは、罪が赦されることによって自分の罪を自覚させられました。そして「神に正しい良心を願い求め」(Ⅰペトロ3章21節)た彼らは、ミリエルと、また、イエス・キリストとの約束を胸に、その後は、生涯をかけて神に従い、人を愛するものとなりました。

 今日お読みいただいた聖書箇所では、聖霊に満たされた弟子たちが、様々な国の言葉で神のなされたこと、イエス・キリストの十字架の死と復活、神の赦しと神の愛を証言しました。

 イエスの弟子たちは、もともと漁師など、私たちと同じ、ごくごく普通の人々です。それなのに彼らが、ありとあらゆる国の言語を話した。それを聞いて、人々はあっけにとられました。ガリラヤ出身の無学な人々が、遠い異国である自分たちの国の言葉を使って、神の御業を語っている!

 これは神の霊・聖霊が成した奇跡です。しかし、一番の奇跡は、弟子たちが外国語を話したということではなく、彼らが神の偉大な業、イエス・キリストを通して、私たちが救われたということを証言したことです。弟子たちはイエスを裏切り、イエスを見捨てました。イエスを救い主だと証言することは、命の危険があったのです。しかし、その彼らが、命を惜しまず、証言し、神の愛と赦しを伝える者に変えられました。『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです』(Ⅰコリント12章3節)とあるように、これは聖霊によるものです。

 夢破れ、自分自身にも失望し、力を落とし、死んだようになっていた彼らが、神の霊によって、新たに生きる者に造りかえられたのです。「霊よ、四方から吹き来れ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る」。

 聖霊に満たされ、力づけられてイエスの弟子は語ります。

「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(使徒2章38~39節)

 「悔い改め」るとは、罪ある自分を認めること。洗礼を受けるとは、神の赦しを受け入れ、「神に正しい良心を願い求め」て、神に従って生きようとすることです。

 ここには洗礼を受けた方も、受けていない方もおられます。そのどちらも聖霊なる神が招いてくださったから、ここにいるのです。聖霊が与えられる、見えない神がいつも一緒にいてくださるという約束は、すべての人に向けられています。

 もしも迷っておられる方がおられましたら、洗礼を受けてみませんか。洗礼は怖いものではなく、嬉しいものです。もし興味を持たれましたら、いつでもお声がけください。

主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて

わたしたちは夢を見ている人のようになった。

そのときには、わたしたちの口に笑いが

舌に喜びの歌が満ちるであろう。

そのときには、国々も言うであろう

「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。(詩編126編1~2節)

罪と死に囚われていた私たち人間を、神が解放し、ご自分の元へと連れ帰ってくださる。

それはなんと嬉しいことだろう。

涙と共に種を蒔く人は

喜びの歌と共に刈り入れる。

種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は

束ねた穂を背負い

喜びの歌をうたいながら帰ってくる。(詩編126編5~6節)

 たとえ今、どんなに苦しくても、どれほど涙を流しても、神は私たちと共にいて、最後には神は私たちの涙をぬぐい、喜びで満たしてくださる。この物語は神が始められたこと。だから、必ず、神ご自身が完成させてくださる。その約束が私たちには与えられています。

その約束に希望を頂き、私たちも聖霊に押し出され、この世にあって、主イエス・キリストの喜びを語りましょう。

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