2025年3月9日 受難節第1主日・四旬節第1主日 マタイ福音書 4章1~11節

1 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。

2 そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。

3 すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」

4 イエスはお答えになった。

「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」

5 次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、

6 言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。

『神があなたのために天使たちに命じると、

 あなたの足が石に打ち当たることのないように、

 天使たちは手であなたを支える』と書いてある。」

7 イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。

8 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、

9 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。

10 すると、イエスは言われた。「退け、サタン。

 『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」

11 そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。

目次

<説教> 「退け、サタン」

先週の水曜日からレント、受難節が始まりました。レントはイエス・キリストの復活を記念するイースターの準備期間です。日曜日を除いて40日間(日曜日を入れると46日)なので四旬節(旬は時間の単位で10日間を指す)とも呼ばれます。これは今日の聖書箇所に出てきた、イエスさまの40日間の断食に由来しています。古くは洗礼を受ける準備をする期間であり、洗礼を受けた人たちにとっては洗礼を受けたことを思い起こす時期でもあります。

洗礼者ヨハネから洗礼を受け、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われたイエスさまは、神さまの“霊”、聖霊に導かれて荒れ野に向かいました。それは悪魔から誘惑を受けるためだったと書かれています。

なぜ神さまは神の子であるイエスさまを荒れ野に導き、悪魔の誘惑を受けさせたのでしょうか。

それは、イエスさまが誘惑を退ける姿を見せて、私たちの模範としてくださったのではないでしょうか。詳しく見ていきましょう。

舞台は荒れ野です。荒れ野は人気のない寂しく荒れ果てた場所、危険な虫や獣がいて、強盗もいる。岩や砂だらけで道は悪く、緑はまばらで、身を守る建物も、食べられるものも、飲み水も簡単には手に入りません。明日も知れず、不確かで、寂しく、不安になるような場所です。

困難があり、様々な誘惑あるところ。しかし同時に、神さまに出会う場所でもあります。モーセが初めて神さまにお会いしたのも、荒れ野でした(出エジプト3:1)。また、荒れ野は私たちの人生にも例えられます。苦しみの中で、私たちは神さまにお会いし、その恵みに気がつかされて行くのだと思います。

さて、40日の荒れ野での断食の後、空腹のイエスさまのもとに現れ、誘惑する悪魔。悪魔、サタンはイエスさまに、もし「神の子なら…」と誘惑をしてきます。神の子、救い主、メシア、キリストなら、これくらいできるだろうと。

第一の誘惑、石をパンに変えるという奇跡を行い空腹を満たすという誘惑は、モーセに導かれたヘブライ人たちが荒れ野で空腹を訴えたときに、神さまがマナという食べ物を与えてくださった出来事を思い起こさせます(出エジプト16章)。奇跡を起こすことによって自分の欲求を満たすこと。魅力的な誘惑です。しかし、イエスさまは申命記8章3節の言葉から「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と答えて誘惑を退けます。

これはパンを食べなくても生きていけるという意味ではありません。食べることは大切なことで、私たちは食べなくては生きていけません。でも、ただ食べられればそれでいいというものでもない。

神さまは私たちにパンが必要なことをご存じです。イエスさまは主の祈りで「わたしたちの日毎の糧」を求めるように祈ることを教えておられますし、神さまは空腹で苦しむヘブライ人たちにマナという食べ物を与えて養われました。私たちが食べる糧はすべて神さまが与えてくださっているものです。それを「自分の力と手の働きで、この富を築いた」、「自分の力だけで食べ物を得た」と思い違いをして、神さまを忘れてはいけないということを聖書は教えています。

また、私たちは食べ物だけでなく、人と人との関りの中で、また人と神さまとの関りの中で、様々な「言葉」に励まされ支えられながら生きています。特に、神さまの言葉は私たちを生かしてくださるものです。私たちには先のことは分かりません。一人ではどう生きればいいのかもわかりません。そのような私たちに、将来への希望を与え、互いに愛し合って生きるという道を示し、一人ひとりに生きる意味を与えてくださいます。イエスさまは、私たちを生かしてくださっている神さまへの信頼を教えてくださったのです。

次に、第二の誘惑です。悪魔はエルサレム神殿の上にイエスを連れていき、「この神殿の上から飛び降りてみろ、神の子なら神さまが助けてくれるだろう。だって聖書には『神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』と書いてあるぞ」というのです。これは旧約聖書、詩編91編の引用です。興味深いことに、悪魔も聖書を用いて私たちを惑わすのです。このことは聖書を読む際は気を付けながら読まなければならないということを教えてくれます。

さて、この当時のエルサレム神殿はヘロデ王によって改築されたものですが、最初のソロモン王が建て神殿と同じ高さだったとすると約13.5mで、3~4階建てのビルくらいでしょうか。十分死ぬ可能性があり、そうでなくても大怪我をする高さです。ほら、聖書に書いてあるぞ。お前が神の子なら、神さまを信じるなら飛んでみろ!また、本当に天使が支えてくれるのだとしたら、それを見た神殿に集う人たちはイエスさまが救い主であることを容易に信じたかもしれません。これも魅力的な誘惑です。

しかしイエスさまは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と答えて、悪魔を相手にしませんでした。イエスさまの引用した聖書は申命記6章16節で、出エジプト記17章の出来事、ヘブライ人たちの神さまへの不信仰について語られている箇所です。エジプトで奴隷となっていたヘブライ人たちは神さまによってモーセに導かれ、エジプトから脱出します。しかし、荒れ野の中で苦しみ、神さまを疑うようになります。そして、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って、モーセと争い、主を試しました。聖書はそのようになってはならない、と教えています。しるし、奇跡を求めることは、信仰心のゆえではなく、神さまへの不信仰や忍耐のなさからくるもの。人々はイエスさまに「しるし」、「奇跡の力」を求めます。しかし、イエスさまはそれらの要求も「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(マタイ6:4)と退けました。そして、「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)と言っておられます。

最期に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、 「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言いました。

地球は球体ですし、非常に広いので、どんなに高い山に登っても、世のすべての国々を見ることは出来ませんから、これは幻を見せられたと考えればいいでしょう。

世界の全てを与えよう!この世界すべての支配者にしてあげよう!これも何人もの独裁者が夢見た、魅力的な誘惑です。でも、先ほどのこどもメッセージでも触れましたが、この世界は神さまのものです。悪魔のものではありません。悪魔を拝んでも決して世界は手に入りません。詐欺と同じで、美味しそうな話で誘うけれども、その先に待つものは身の破滅です。

この悪魔の誘惑から、悪魔の目的が分かります。どれだけイエスさまを誘惑しても相手にされない悪魔は、ついにその目的をさらけ出しました。神さまではなく、自分を拝ませようとすること。私たちを神さまから引き離すことが悪魔の目的なのです。

しかし、私たちは二つの主人に仕えることは出来ません。イエスさまは「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」と答えます。これは申命記6章13節からの引用です。ユダヤ人たちが普段から口にする、最もなじみのある聖句でした。

だめだ、何も言っても神さまから引き離すことは出来ない。そこで、悪魔は離れ去り、天使たちが来てイエスに仕えたと書かれています。イエスさまは悪魔の誘惑に打ち勝たれたのです。

しかし、これで悪魔の誘惑は終わったわけではありませんでした。イエスさまはこの後も、何度も悪魔の誘惑を受けます。

悪魔は「神の子なら…」と言ってイエスさまを誘惑しました。「神の子なら…」これは十字架にかけられたイエスさまに人々が投げかけた言葉でもあります。「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ27:40)。

パンと奇跡はいつの世も人々が求めるものでした。奇跡的な医療者として(マルコ1:35~39)、武力による解放者、王として(ヨハネ6:14~15)、十字架の予告を弟子たちが退けようとしたとき(マタイ16:21~23)、十字架に磔されたとき、そして死に至るまでイエスさまへの誘惑は続きます。

しかし、イエスさまは奇跡の力を自分のためには使いませんでした。そして神さまの御計画である苦難と十字架の死を、従順に受け入れ、私たちの身代わりとなってくださいました。そして私たちの不従順を、ご自分の従順によって覆ってくださったのです。

イエスさまが受けた悪魔の誘惑は、人間が生まれながらに持つ「罪」に働きかけるようなものでした。それは「神のようになりたい」という思いです(創世記3:4)。しかし、イエスさまはそれを退け、仕えられるものではなく、仕えるものとして生きる、新しい真の人として生きる道を示してくださいました。

イエスさまは私たちの模範となって悪魔の誘惑を受けてくださったと言いました。イエスさまのように洗礼を受けた後も、イエスさまが死に至るまで誘惑を受けたように、私たちの信仰生活も絶えず、荒れ野のようなこの世にあって、死に至るまで誘惑、試みを受けるものなのかもしれません。それでも、大丈夫、悪魔はイエスさまに勝つことができませんでした。私たちには悪魔に勝たれたイエスさまがいつも一緒にいてくださいます。「退け、サタン」と悪魔の誘惑を退けたイエスさまに倣い、私たちも神さまを信頼して、信仰を全うできますように。

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