数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
<説教> 「あなたの罪は赦される」
今日は選挙の日でしたね。政治家も私たちと同じ、不完全な人間ですから、完璧な人などありえませんが、この国の主権者の一人として、平和を愛し、すべての人を愛してくださる主イエス・キリストの弟子として、戦争を煽らない、差別をしない、平和を愛する人を選びたいと思って、一票を投じてきました。武力を誇る国ではなく、この国に住むすべての人が安心して暮らせる、優しい国になりますように。私も朝一で選挙に行ってきましたが、雪のために早めに投票を締め切るところもあるようです。お昼から投票に行かれる方は、どうぞお気をつけて。入場券がなくても、本人確認が出来れば投票できるそうですよ。投票に行かれる方、投票所を運営されておられる方の安全が守られますように。
今日の舞台、カファルナウムはガリラヤ湖の北側にあった町で、ここにはイエスさまの主だった弟子であるペトロとアンデレの家があり(マルコ1:29)、イエスさまもこの町に住んでいました(マタイ4:13)。「イエスの町」(マルコ9:1)と呼ばれ、ガリラヤにおけるイエスさまの宣教拠点となった場所です。
旧約聖書には登場しないので、バビロン捕囚後に建てられた町と考えられています。ローマ軍の駐屯地があり、収税所がありました。「異邦人のガリラヤ」と呼ばれるにふさわしく、色々な民族が一緒に住む、栄えた町だったようです。この地を舞台にイエスさまは神の国の良き知らせについて教え、数々の癒しの奇跡をなさいました。今日の聖書箇所もそんな奇跡物語の一つです。
今日登場する「家」は、ペトロの家だったのではないかと考える人もいますが、はっきりとは書かれていないので分かりません。イエスさまが住んでいた家でした。当時の家は、石や木や日干し煉瓦などでできており。梁に木の枝や藁を敷き、泥や粘土を塗り固めて屋根にした四角形の家で、外階段から屋上に上がれたそうです。
ローマ帝国に支配されていた時代のこと。「パックス・ロマーナ」、「ローマによる平和」と言っても、それは支配者であるローマ人にとってのこと。被征服民の暮らしは辛く、貧富の差は拡大し、混乱した時代だったようです。そんな時代にあって、神さまの教えを聞きたいと多くの人がイエスさまの家にやってきました。また、イエスさまは神の国について教えるだけでなく、病を癒し、悪霊を追い払うなどの奇跡も行ったので、自分たちも癒してもらおうと、たくさんの人が集まってきました。医学も発達しておらず、また医者にかかることも難しい時代のこと。癒してくれる人がいると聞けば、遠いところからでもやって来たことでしょう。
そこに中風(脳卒中などが原因で体にマヒがある人)の人を癒してもらおうと担架に乗せて四人の人がやって来ました。しかし、あまりに人が多くて、彼らは家の中に入ることも出来ません。普通なら、諦めるか、人々が帰るまで待とうとするでしょう。しかし彼らは違いました。中風の人を担いで屋上に上がり、あろうことか、イエスさまのおられるあたりの屋根をはがして、穴をあけ、中風の人を吊り下ろしたのです。
家の中にいた人たちも、イエスさまもびっくりしたことだろう。まして、自分の家の屋根を壊されたのだから、なんてことをしてくれたんだ、非常識な!と怒り出したとしても無理はありません。
木の枝や藁を敷いて、泥や粘土を塗り固めた屋根。はがす時には、ドンドン、バリバリと大きな音もしただろうし、砂や埃や藁や枝なんかが落ちてきて、大変な騒ぎだったと思います。すわ何事か!と上を見てみれば、屋根に穴が開いて、青空なんかも見えていたんじゃないでしょうか。
想像してみると、大事なんだけど、大変可笑しい、滑稽さも感じる、ユーモラスな場面です。そして何と、中風の人が床に寝たまま、おそらく担架のようなものに寝かされたまま、穴から吊り下ろされてきた。大の大人が寝たまま吊り下ろせるくらいだから、けっこう大きな穴だったろうと思います。
あまりのことにあっけにとられ、もしかしたら、怒り出すよりも先に、イエスさまは笑ってしまったんじゃないでしょうか。そして、彼らを叱ることもせず、中風の人を癒してくださいました。
やっぱりイエスさまは懐が深い、情け深いお方です。自分だったらば、きっと怒ってしまうと思います。
この時、イエスは「その人たちの信仰を見て」と書いてあります。中風の人、癒してもらう人の信仰ではなく、その周りの人の信仰を見て癒してくださったのです。この記事は私たちに安心を与えてくれます。私の、自分自身の信仰がどうかではなく、周りの人tかひの信仰によっても、神は憐みをかけて、救ってくださるお方なのです。信仰とは、個人のものなのではなく、信仰共同体のものなのだなと思わされます。
私たちも他者のために祈ります。お互いのために祈ります。その祈りを、神さまは聞いてくださるのです。ここで、癒される人の信仰は問われてはいません。このことは、悪霊に憑りつかれた子どもを癒してもらおうとし、「信仰のない私をお助けください」と叫んだ父親の願いに応えて、子どもを癒してくださったイエスさまの姿とも通じます(マルコ9:24)。
ここで興味深いのは、癒しを求めてきた人に対して、イエスは「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたことです。翻訳の関係で、これだと「赦される可能性がある」「将来赦される」とも読めますが、原語では現在形で、複数形。「あなたの罪の数々は赦されている」とも訳せます。赦しや救いは、何かの条件ではなく、神の一方的な愛、憐み、恵みによって与えられるものなのです。
イエスさまは神の子であり、神の代理人。救い主として、罪の赦しを宣言されました。「あなたを癒してあげよう」ではなく、「あなたの罪は赦された」と言われたのはなぜでしょう。それは、当時の社会において、病はその人の罪の結果だと考えられていたからでした。病の苦しみだけでなく、他者からの罪人だという視線、それにより自分でも自分を責めてしまうという三重苦の中に、この中風の人はあったのです。だからこそ、イエスさまはその苦しみの根源となる罪を赦されました。
大丈夫、あなたは悪くない、私があなたを赦した。人は誰でも病になることはある。しかし、病は病でしかないのだ。それ以上に苦しまなくていい。罪の赦しの宣言が、何よりもこの人には必要だったのです。
しかし、そのことが、その場にいた律法学者たちをつまずかせました。彼らは、「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」と考えました。聖書の専門家である彼らがこう考えるのも無理はありません。
罪とは、私たち人間が、私たちの造り主であり、愛そのものである神さまに背いて自分勝手に振舞うことですから、その私たちの罪を赦すことが出来るのは神さましかありません。「あなたのような神がほかにあろうか咎を除き、罪を赦される神が」(ミカ書7:18)と聖書に言われています。
エルサレム神殿の祭司たちは人間の罪を赦してもらうよう、神さまに犠牲の獣を捧げ、香をたくなどの儀式を通して執り成しを行っていましたが、その場合にも、赦す主体は神さまであって、祭司ではありません。だから、律法学者たちは、罪の赦しを宣言したイエスさまに対して、神さまの領域を犯した、神を冒涜したと考えて憤慨したのです。
しかしイエスさまはただの人間ではなく、神の子です。神さまから派遣されて、この世界にやって来た、神さまの代理人です。だから、神さまと同じく、イエスさまには人の罪を赦すことが出来るのです。そして、イエスさまは十字架の上で自分の死を望む人の罪さえ、自分の敵の罪さえ、赦してくださいました。イエスさまはその生涯をかけて、愛である神さまの赦しを体現してくださったのです。
神さまの子であるイエスさまは、彼らの暗い心を見抜いて言われました。
「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」普通であれば、中風の人に「起きて、床を担いで歩け」と言う方が難しいと思います。けれども、先ほど見た通り、赦しは神さまだけが出来ることですから、「あなたの罪は赦される」、「あなたの罪の数々は赦された」と言う方が難しいのです。しかし、イエスさまはそのどちらをも叶えてくださいました。
そして中風の人に「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われると、その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行きました。病は罪の結果と考えられていた時代ですから、病の回復は罪からの解放と同義でした。病の人が回復したということは、罪は赦されている証拠とされました。今までではありえない、自分たちの常識を超えたことが起こった!人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神さまを賛美します。
イエスさまは「家に帰りなさい」と言われました。イエスによる罪の赦しは、癒しだけでなく、家に帰すこと、社会に帰すこと、共同体への復帰が伴うのだと思わされます。罪人だとされた人が、罪を赦されて、共同体のなかで一緒に生きるようになる。それは私たち教会の姿でもあります。私たちもイエスさまに罪を赦していただいた、赦された罪人です。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(ローマ5:8)、『「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。』(Ⅰテモテ1:15)。私たちは皆罪人だけど、
神さまは、そのような私たちを愛し、赦し、招いてくださっている。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』(マタイ12:7)、と神さまは言っておられます。イエスさまは、すべての人に、私たちに、「あなたの罪は赦される」、「あなたの罪の数々は赦されている」と言ってくださっています。大丈夫。イエスさまは私たちを赦してくださっています。愛してくださっています。だから、私たちも、愛である神さまに従って、敵を作らず、差別せず、神さまに赦された者同士、互いに赦し合い、一緒に生きて行きましょう。
