2026年2月22日 受難節第1主日 マルコ福音書 1章12~15節

それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。

ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

目次

<説教>「荒れ野の誘惑」

レント、受難節が始まりました。イエス・キリストの受難を偲び、自らを振り返り、イエス・キリストの復活をお祝いするイースターを迎える心備えをする時期です。

神の子イエス・キリストは私たちの救い主であり、先生です。聖書はイエス・キリストや使徒たち、預言者たちを模範にするようにと語っています。もちろん、到底できないなとも思いますが、「人は易きに流れる」ということわざもあるように、私たちはついつい簡単な方に流されがちですから、理想や目標は高い方が良いのです。私が役者をしていた時、ある演出家の方もこう言っていました。「目標は高い方がいい。世界一の役者を目指してようやく日本一、日本一の役者を目指してようやく地域で一番になれると思いなさい」と。私は世界一にも日本一にもなれなかったけれど、目標は高く、精一杯頑張ってきた。その自信が、いまの自分を支えてくれていると実感しています。

今日、日本国憲法を改悪しようとする動きがあり、その中で、「現実に合わせる」のだと言う人がいますが、目標を下げて、それでどうして「世界で輝く国」になれるのだろうかと思います。「普通な国」ではなく、平和憲法を活かした「特別な国」でいてほしいものです。また、武器を売れるようにしようという動きもありますが、それは人殺しに加担する道です。そんなことで儲けるお金ではなく、命や人の道を大切にする国であってほしいものです。

宗教は道を説くものです。キリスト教ももともと「この道」と呼ばれていました。道とはつまり、私たち人間がどのように生きるべきか、どのように生きて行きたいかという、私たちの在り方についての進む方向性を示すものです。キリスト教における道とは、イエス・キリストの歩まれた道、愛と平和の神さまへと続く道、すべての人が神さまに愛されている存在として互いに大切にし合う隣人愛への道です。力の支配、武器や暴力やお金や権力が世界を支配するのではなく、愛が支配する世界です。どんな人も、互いに遜り、互いに敬意を持ち、配慮しあう、そのような世界です。

確かに、現実は苦しいかもしれない。ニュースを見ても、また私たちの周りでも、目を覆いたくなるような出来事がたくさんあります。ため息をつき、諦めて、目も耳も塞いで、閉じこもりたくなります。私たちはまるで荒れ野にいるかのようです。

荒れ野は人寂しく、荒涼として、食べ物も飲み水も容易に手に入らない場所です。石や砂だらけで、歩きづらく、靴に小石が入って痛いところです。時折強風が吹きつけ、砂ぼこりで目や口を開けていられません。日中は暑い太陽が照り付け、乾燥しており、休める木陰を捜すのも一苦労です。かと思えば夜は冷え込み、身を寄せて眠るところを捜すのも一苦労。ようやく石を枕に眠ります。毒を持った虫や蛇がおり、また鋭い牙と爪を持った野獣が獲物にありつこうと狙っています。

そのような場所に、洗礼を受けたばかりのイエスさまを、神さまの霊は送り出しました。気は休まらず、飢餓や寂しさに耐えながら、命の危険さえある場所へ、なぜ神の子である方が行かされたのでしょうか。

それはサタンから誘惑を受けるためだったと書かれています。サタンは悪魔と同じと考えていいでしょう。私たちを誘惑し、試み、神さまから遠ざけようとする存在です。そして私たちが神さまから離れてしまったら、嬉しそうにそれを神さまに密告する、そのような存在として聖書には描かれています。ただでさえ厳しい環境なのに、そこにサタンまでいる。私ならすぐにでも逃げ出したくなるような所です。しかし、イエスさまはあえて荒れ野に留まり、誘惑を受けられました。

それは、私たちの模範となられるためだったと思うのです。私たちクリスチャンはイエス・キリストを神の子、我が救い主と受け入れて、愛の主イエス・キリストに従って、この世にあって、自分たちも神さまの子どもとして生きて行こうと望んで洗礼を受けました。しかし、洗礼を受けてもすぐに何かが変わるわけではありません。むしろ、苦しみの方が増すかもしれない。クリスチャンになるまでは目をつぶっていたことに、気が付かされるから。

私は幼児洗礼で、なかなか信仰の自覚を持てないまま30歳まで過ごし、フランスで通った日本人教会で自覚的な信仰へと導かれました。

その時、牧師には、「イエスさまは光だから、受け入れるとしんどいこともある。自分の闇がよく見えるようになるから。でも、それでも受け入れて良かったと思える」と励まされました。

クリスチャンになった今、本当にそうだなぁと思います。

他の福音書とは違い、マルコによる福音書ではどのような誘惑かは書かれていませんし、誘惑を退けたとも書かれていません。ただ、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」とだけ書かれています。

マルコによる福音書によれば、天使たちはイエスさまが誘惑を退けたから仕えたのではありませんでした。荒れ野、それも野獣がいて苦しい状況であっても、天使たちはイエスさまと一緒にいて、イエスさまを守ってくれていた。それと同じように、荒れ野の中にいるような私たちのことも、目には見えなくても、神さまは天使たちを遣わして、守ってくださっている、そう思うのです。

それは西洋の絵画に出てくるような羽の生えた天使の姿ではないかもしれません。でも、私たちはこれまでも、折に触れて、様々な形で、様々な人たちに支えられ、祈られてきました。実は私たちは一人ではなく、神さまに与えられた天使として、お互いに仕え合ってきたのだと思うのです。そしてそれはこれからもそうだと確信しています。そして何より、私たちには、私たちと同じように苦しみを受けて、私たちの模範となってくださったイエスさまが、いつも一緒にいてくださっています。

「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」(ヘブライ人への手紙4章14~15節)と言われています。

神さまに私たちのことをとりなしてくださるイエスさまは、神さまと同じ身分であったのに、その身分を捨てて、私たちと同じ人間となり、私たちの苦しみをすべて知ってくださっている。そして、私たちを愛し、私たちの身代わりとして十字架で死に、復活し、永遠の命への道を開いてくださった。そのような方が、私たちと一緒にいてくださっている。だから、感謝して謙虚に、互いに愛し合いながら生きて行こう。それが私たちの信仰です。

どれだけがんばっても上手くいかない、誰にも理解されない、助けてくれない、そのような状況もあるでしょう。それでも、目には見えなくてもイエスさまはいつも私たちと一緒にいて、守り、逃れの道も備えて下さっている。

イエスさまは40日間、荒れ野で試練を受けました。40という数位は聖書によく出てくる象徴的な数字で、それは「長い間」を指しているといいます。長い間、苦しむこともあるでしょう。でも、それは永遠の苦しみではなく、いつか必ず終わります。イエスさまは誘惑を退け、私たちの模範となってくださいました。

そして、「時は満ち、神の国は近づいた」と宣言されました。

どんなに苦しくても、私たちには天使が付いており、イエスさまが一緒にいてくださっている。

神の国とは、神さまが支配しておられる所、神さまが居られる所。天使たちがいて、イエスさまが私たちと一緒にいてくださるなら、神の国はもうすでに、ここに、私たちのところに来ています。

もちろん、完全なものは世の終わりの時に来るとしても、イエスさまを信じる私たちの間では、すでに神の国が始まっている。私たちのこの世での苦しみは、完全なものが来るまでの、一時のこと。何事にも終わりが来るように、レント・受難節の時が過ぎれば、イースター・復活祭がやってくる。

私たちは毎年、クリスマスを祝い、レントを迎え、イースターとペンテコステを祝います。それは繰り返すことで、私たちが、希望を学ぶためです。

サタンは、私たちが諦め、神さまから離れるのを待っています。でも私たちは負けません。苦しみの先には、希望と喜びが待っていることを知っているから。愛が支配する神の国がすでに始まっていることを知っているから。荒れ野のようなこの世の中にあっても、イエス・キリストを信じる私たちは、イエス・キリストを見つめながら、キリストに従って生きましょう。

目次